アンデルセン「雪の女王」感想ネタバレ|ゲルダの旅は中盤が散漫

結論:発端と終盤は傑作級。ただし中盤は「寄り道の見本市」で、物語の推進力が落ちる

アンデルセン「雪の女王」は、ディズニーの『アナと雪の女王』の原作として手に取ると、まず肩透かしを食らう。魔法の力で姉妹が和解する話ではなく、悪魔の鏡の破片で冷たくなった少年を、ただの少女が歩いて取り返す話だからだ。

鏡のかけらという発端の設計と、氷が解ける終盤の場面は、童話の枠を超えて強い。一方で七つに分かれた物語の中盤は、花ぞの、王女の城、追いはぎの山塞と、出来のよい挿話が並ぶだけで、カイを救うという一本の線が何度も緩む。最初と最後だけなら満点、全体では「強い核を、飾りが薄めた作品」というのが率直な評価だ。

※今回は青空文庫で読める楠山正雄訳(「七つのお話でできているおとぎ話」)をもとに書いている。訳によって語感はかなり変わる。

最小限のあらすじ

悪魔が作った「美しいものを醜く映す鏡」が砕け、そのかけらが少年カイの目と心臓に入る。カイは隣家の少女ゲルダに冷たくなり、やがて雪の女王のそりに連れ去られる。ゲルダは「カイは死んでいない」と信じ、赤い靴を川に投げ入れて、たった一人でカイを探しに出発する。

※ここから結末に触れます。

「雪の女王」の鏡のかけらと結末の意味:独自の深掘り・魅力

悪魔の鏡のかけらが「冷たい心」を説明してしまう設計の巧さ

冒頭の第一のお話は、本筋の前置きとして書かれている。鏡は「どんなけっこうなうつくしいものでも」小さく映し、くだらないものほど憎らしく大きく映す。このかけらが目に入った人は物事の悪いほうだけを見るようになり、心臓に入った人はそこが氷のかけらのように冷たくなる、と語られる。

うまいのは、これが「悪い魔法」という外側の説明で終わらず、カイの変化の描写と完全に噛み合う点だ。カイはゲルダの花ぞのを見て「あのばらは虫がくっているよ」と言い、ばらを引きちぎる。優しかった少年が、世界の欠点だけ見つける賢い子に変わる。周囲の大人は「あの子はきっと、いいあたまなのにちがいない」と感心するが、語り手はすぐに、それは鏡のかけらのさせることだと水を差す。「頭のよい皮肉屋」がいちばん冷えているという人間観察が、鏡の寓話の形で一撃で通る。

雪の結晶を「欠けたところがない」とほめるカイの怖さ

鏡の破片が入ったあと、カイは虫めがねで雪のひとひらを見せて「かけたところなんか、ひとつだってないものね」と言い、本物の花より面白いとまで言う。完璧で、整っていて、溶けさえしなければ美しい。この価値観が、のちに雪の女王の城でカイが氷の板を並べる「理性のゲーム」へまっすぐつながる。

城の場面の「永遠」という言葉が、カイにはどうしても組み立てられない。雪の女王は、その形を作れれば自由にし、世界ぜんたいと新しいそりぐつをやる、と言う。頭の良さだけで永遠に届かない、という皮肉の効いた課題で、伏線としても設計が美しい。後で見るが、答えは頭では出ない。

ゲルダの涙が氷を溶かす場面は、なぜこんなに効くのか

決定打は、ゲルダの涙がカイの胸に落ちて心臓の氷を溶かし、鏡のかけらを消す場面だ。ゲルダが賛美歌を歌うと、カイはわっと泣き出し、泣きすぎて目のガラスのとげが抜ける。ここは、ゲルダが「正しい説得」をしないところがいい。カイを論破しない。叱らない。ただ泣き、歌う。カイが氷の理屈でできた人間だったからこそ、理屈ゼロの涙が最大の反証になる。

さらに、二人が再会して喜びあうと、氷の板が勝手に踊り、倒れた形がひとりでに「永遠」の綴りになる、という流れが続く。頭で組み立てても届かなかった答えが、喜びの副産物としてこぼれ落ちる。創作者の目で見ると、この「課題を力ずくで解かず、別の出来事の副産物として解決させる」処理は、真似したいほど鮮やかだ。

ラストの賛美歌と聖書の一節が回収するもの

物語の冒頭と結末には同じ賛美歌がある。「ばらのはな さきてはちりぬ おさな子エス やがてあおがん」。故郷に戻った二人は、おばあさまが読む「なんじら、もし、おさなごのごとくならずば、天国にいることをえじ。」を聞き、歌の意味が「にわかにはっきりとわかってきました」となる。そして二人は大人になった体のまま、心はこどものままで椅子に座る。

キリスト教の文脈がない読者には少し説教くさく映るが、構造としては筋が通っている。冒頭では歌はただの日常のささやかな風景だった。結末では、冷たい賢さを一度通り抜けた二人にとって、その歌が別の重みを持つ。同じ要素を二度出して、読者の側の理解の変化を測らせる、よくできた回収だと思う。

「雪の女王」の中盤が散漫と言われる理由:忖度なしの欠点・違和感

第三〜第四のお話が、カイを救う物語から脱線している

第三のお話の魔法使いのおばあさんの花ぞのでは、ゲルダはさくらんぼを食べ、髪を金のくしですかれるうちに、カイを探す目的を忘れる。ここ自体は、帽子の絵のばらを消し忘れた「手ぬかり」が突破口になる、愛嬌のある展開だ。しかし、続く花たちの語りは困る。おにゆり、ひるがお、ヒヤシンス、たんぽぽ、黄ずいせん。それぞれが自分の話をするが、どれもカイとは無関係で、ゲルダも「なんのことだか、まるでわからないわ」と返すだけだ。

この場面は文章の美しさでは出色だが、物語の推進力はここで一度止まる。花が「みんな自分の歌しか歌わない」という含みを読み取れば意味はあるのだが、その含みを理解させるのに、これほどの分量は要らない。

第四のお話の王子と王女の部分はさらに長い。カラスが王女の婿選びを語り、婿候補が城でぼうっとなる様子を延々と説明する。ところが、カラスが「カイかもしれない」と言って連れていった少年は、結局カイではなかった。ゲルダがランプを持って寝室に入り、ベッドの人の日焼けした首すじにカイを見出す場面は緊張があるのに、結果は人違いで終わる。その後、ゲルダは絹やビロードの服、金の馬車、長ぐつ、マッフまでもらって旅を続ける。人違いの代償に装備が揃うだけで、物語に何も残らない。中盤の挿話が「話の都合のよい補給所」に見えてしまう理由だ。

追いはぎの娘とトナカイが優秀すぎて、ゲルダが主役でなくなる

第五のお話の追いはぎの娘は、作中でいちばん魅力的な人物だと思う。母親の耳に噛みつき、ゲルダには「あたい、おまえとけんかしないうちは、あんなやつらに、おまえをころさせやしないことよ」と言い、トナカイの首に毎晩ナイフを当ててからかう。残酷さと愛情が同居していて、寝ているゲルダの首に腕を回しながら手にはナイフを握ったままというのが、たまらなく怖くておかしい。

問題は、この人物が出てくるぶん、ゲルダの旅が「他人の助けのリレー」になってしまう点だ。カラスが宮殿に導き、追いはぎの娘がトナカイを逃がし、トナカイがラップランドの女へ、ラップランドの女がフィンランドの女へ送る。ゲルダ本人の判断で道が開く場面は、赤い靴を川に投げる冒頭と、花ぞので泣く場面くらいだ。「小さな娘が世界を歩いて救う」と聞いて想像する能動性は、実際にはかなり薄い。

この弱さを、フィンランドの女の台詞が逆手に取って説明してはいる。ゲルダの力は魔女に貸してもらえるものではなく、「それはあのむすめの心のなかにあるのだよ」、「かわいいむじゃきなこどもだというところにある」と言う。意図は分かる。ただ、これは作者が自分で作った穴を、台詞で後から埋めている形だ。読者に手応えとして感じさせず、人物の口を借りて宣言させる点が惜しい。

終盤の山場が、祈りで出てくる天使軍に頼りすぎている

女王の庭の入口で、雪の大軍が襲いかかる場面は迫力がある。ところが、ゲルダが主の祈りを唱えると、息が天使になり、槍で雪の兵隊を倒して道が開く。ここでゲルダの能動性は「祈る」ことに集約され、苦労して歩いてきた足の経験が、勝敗にほとんど影響しない。宗教的な必然としては筋が通っているが、物語の作りとしては、最大の危機が外から来る救済で解決される形になっている。

そもそも雪の女王自身の扱いも薄い。カイを連れ去る場面は鮮烈なのに、最後は「あたたかい国の火山を白くしてくる」と出かけた隙に、ゲルダが入ってくる。女王が不在のまま物語が終わるので、ゲルダと女王の直接の対決が一度もない。タイトルの人物が、鏡を「理性の鏡」と呼び、その中に座っていると言うだけの舞台装置で終わるのは、もったいない。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

向いているのは、次のような人だ。

  • 『アナと雪の女王』の原案がどんな話か、結末まで確かめたい人
  • 「頭の良さ」と「心の温度」の対立を、寓話の形で読みたい人
  • 追いはぎの娘のような、癖の強い脇役の造形を楽しみたい人
  • 創作者として、「課題を力ずくで解かず、別の出来事の副産物として解決させる」例を見たい人

逆に、物語が一直線に進んでほしい人には、中盤の寄り道が長く感じられる。その場合は、第一〜第二のお話と第七のお話だけ先に読むと、この作品の核は十分つかめる。

アンデルセンの他の作品を比べたい人は、救いのなさで読者を殴る「マッチ売りの少女」と読み比べるとよい。同じ作家でも、幸福な結末まで連れていく「雪の女王」のほうが、ずっと物語の設計に手間をかけているのが分かる。