結論:三万字に満たない小説が、何も起こさないまま一番残酷な結末に着地する
樋口一葉「たけくらべ」は、読み切るまでが苦行で、読み終えてからが本番という小説だ。冒頭の第1章は句読点がほとんど途切れない一文の連なりで、吉原裏の町の風俗を延々と並べる。ここで脱落する読者は多いはずで、それは読者の怠慢というより、作者がそう書いたからだ。
それでも最後の二章、美登利が島田髷を嫌がって布団に突っ伏す場面と、格子の外に差し入れられた水仙の造花の一行は、日本の近代小説でも指折りの「言わないことで刺す」結末になっている。ただし、その威力は前半の長い助走と、信如という人物の描き方の偏りの上に成り立っている。
最小限のあらすじ
舞台は吉原の裏手、大音寺前。大黒屋の遊女の妹で、いずれ自分も廓に入る身の美登利と、龍華寺の跡取りで僧になる定めの信如は、同じ町で育つ十四と十五の子どもだ。祭りの夜の乱暴をきっかけに二人は互いに意地を張り合い、口もきかなくなる。やがて美登利の身に、子どもではいられない日が来る。
「たけくらべ」の魅力:文語体の長い息が、子どもの町の熱を運ぶ
第1章の長い一文は読みにくさではなく設計
第1章は、熊手の下ごしらえをする長屋、夕暮れに羽織を引っかけて廓へ出る男たち、盆の賑わいを真似る子どもたちを、ほとんど息継ぎなしで並べていく。「廻れば大門の見返り柳いと長けれど」と始まる語りは、物語を進めるより先に、この町が何で食っているかを読者の体に入れてしまう。
この冒頭は、後の結末への仕込みでもある。町の子どもは七つ八つから廓の流行歌や仕草を覚え、十五の少年が「ませかた恐ろし」と評される。ここで大人の世界の浸透を先に見せておくから、終盤で美登利が突然「大人に成るは厭やな事」と言い出しても、読者はその背景を知っている。読みにくさの代償として、結末の重さが前払いされている構造だ。
美登利・正太・三五郎、子ども社会の貧富と上下がきれいに見える
祭りの夜をめぐる第2章から第4章で、一葉は子ども社会をほぼ金で仕分けしている。質屋崩れの高利貸の孫で金のある正太、その金に命綱を握られている車夫の息子の三五郎、親がかりの縄張り意識で威張る長吉。三五郎の「田中屋は我が命の綱」という立場は、日歩を取る借金の話として具体的に書かれる。
子どもの喧嘩の背後に、大人の経済がそのまま張り付いている。この描写の細かさが、「子どもだから無邪気」という読みを最初から潰す。長吉が三五郎を殴っても、三五郎は親に叱られて謝りに行かされる。ここは単なる乱暴の場面ではなく、力関係が子どもの体に写っているという、一番冷めた観察だ。
鼻緒の場面は、二人が一言も交わさないから成立する
第12章から第13章の、雨の日に信如の下駄の鼻緒が切れる場面は、この作品でいちばん有名な箇所だろう。美登利は障子の内側から見つけ、友仙縮緬の切れ端をつかんで駆け出すが、信如の前に来ると顔が赤くなり、胸の動悸を人に見られはしないかと振り返ってしまう。
注目すべきは、「平常の美登利ならば」と一葉が延々と言わせる、言わなかった罵倒のほうだ。「あれ/\彼の意久地なしと笑ふて笑ひ拔いて」から始まる長い想像の啖呵は、現実には一言も発されない。しゃべらせない選択が、二人の距離を会話以上に語っている。切れを格子の間から投げ出して去り、信如がそれを拾わない。友仙の紅が雨に濡れて足元に散っている一枚の絵で、この場面は終わる。
二人の仲が壊れた理由を、冷やかしの一言で済ませない
信如が池のほとりで転んで袖を泥にしたとき、美登利は紅の絹のハンケチを取り出して拭いてやる。それを見た友達が「大方美登利さんは藤本の女房になるのであらう」と囃す。この一件で信如は美登利の名前を聞くだけで胸がもやもやするようになり、美登利が花を折ってほしいと頼んでも、投げつけるように折って行き過ぎる。親切にされた側が、親切をした相手を避ける。この反転の書き方が、恋と呼ぶには幼すぎる感情の居心地の悪さを、少しも甘くせずに見せている。
二人の隔たりを、一葉は「唯いつとなく二人の中に大川一つ横たはりて、舟も筏も此處には御法度」と書く。喧嘩の原因を一つの事件に固定せず、気付けば川ができていた、という時間の書き方にしてある。だから、後の鼻緒の場面で美登利が駆け出すのも、信如が背を向けて固まるのも、どちらも「仲直りできない理由」を説明しないまま、体だけが先に反応してしまう。理屈を後ろに回す、この順番の付け方が一番うまい。
※ここから結末に触れます。
水仙の造花と信如の旅立ち、「誰が置いたか」を書かない意味
結末は、第16章の最後の数行に収まっている。美登利は生まれ変わったように町に出なくなり、友達にも正太にも顔を見せなくなる。そして「或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有けり」。誰の仕業か美登利は知らないが、懐かしい思いで一輪ざしに入れて眺める。後から聞けば、その翌日は信如が僧の修行の学林に入る日だった、という。
差し入れた人物を、一葉は名指ししない。しかし直前に、信如が修行の道に出る噂を美登利は少しも耳にしなかった、という一文が置かれているので、読者は花の主を察してしまう。美登利だけが知らない。この「読者だけが分かっていて、本人だけが気付けない」落差が、水仙の造花の哀れを作っている。しかも花は造花で、枯れない。もう会えない二人の間に、朽ちない物だけが残る。
たけくらべの欠点:「かの日」を書かない美登利の変化と、偏った人物配分
美登利の変化は、予備知識がないと理由が読み取れない
第14章で美登利は、大嶋田に結い上げた姿で正太の前に現れ、「私は厭やでしようが無い」と俯く。第15章では布団に伏して「帰つてお呉れ正太さん、後生だから帰つてお呉れ」と泣き、彼を追い返す。ところが、何が起きたのかは作中で一度も名指しされない。母親が笑顔で「今にお侠の本性は現れまする、これは中休み」と言うだけだ。
この省略を美点とする評価が定説なのは承知している。だが創作者の目で見れば、これは読者の知識に寄りかかった書き方でもある。当時の読者は廓の習いを共有していたから、島田髷と母親の笑みだけで足りた。今の読者は、注釈や解説を横に置かないと、美登利がなぜ「大人に成るは厭やな事」と言うのかが取れない。普遍的な小説ではなく、時代の暗黙知に守られた小説だと言わざるを得ない。
第9章の龍華寺描写で、物語が止まる
第9章は、住職の肥えた腹、生臭を口にする寺の台所、簪の店を出す欲深さ、そして信如の「何故その頭は丸め給ひしぞ」という恨みを、延々と語る。信如が寺の子であることへの屈託を説明するための章で、内容は重要だ。しかし分量が過剰で、祭りの夜から鼻緒の場面へと進む緊張が、ここで一度ほどける。
しかも、ここでの信如は語り手に内面をほぼ説明されてしまう。美登利のほうは、第12章の「平常の美登利ならば」の想像の啖呵のように、行動と言わなかった言葉で見せる。同じ二人の主人公に対して、説明で書く側と、描写で見せる側が混在している。結果として、美登利は読ませる人物、信如は解説される人物になり、終盤の水仙の造花の重みが信如側から十分に支えられていない。
正太と三五郎が、結末で置き去りにされる
三五郎は、第4章で借金の鎖と父親の頭の低さを細かく書かれ、第10章では殴られても父親に謝りに行かされる。読者は彼に最も強い同情を向ける。ところが最終章では、商いで儲けた金を腹掛けの隠しに鳴らして、弟妹に好きな物を買ってやる、という場面に変わる。ここは明るいが、美登利と正太の断絶とは別の話として置かれ、前半の「金に縛られる子ども」という問題意識が、結末に回収されない。
正太も、美登利に追い返された後、筆屋の店で荒れた気分のまま転がるところで、ほとんど退場する。結末の哀しさを美登利と信如の二人に絞る判断自体は理解できる。だが、正太という、読者が一番感情移入しやすい少年を、泣き声の落ちる場に置いたまま次の章へ進むのは、構成として乱暴だ。
第8章の風俗の羅列は、美しいが物語を進めない
第8章は、朝帰りの客の顔つき、遊女から築地の座敷に上がった娘の出世話、若い衆の五人組、七人組、そして朝の町を回る大道芸人の一覧までを、一つの長い流れで並べる。そこから美登利が、通りすがりの女太夫を呼び止めて唄わせるところへ着地する。美登利の気質を見せる場面としては鮮やかだが、そこへ辿り着くまでの助走が長すぎる。
町の空気を知るには必要だと言われれば、その通りだ。ただし第1章で同じ手を一度使っている以上、二度目は同じ効き目を持たない。この調子の章が続くと、読者は「この町を理解する」ために読んでいるのか、「この二人の行く末」を追っているのか、読書の目的を見失う。物語の駆動力が一番弱くなるのがこの中盤で、ここで投げ出す読者の気持ちは、正直なところ私にも分かる。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
向いているのは、「何も起きない」ことの怖さを味わいたい人、そして音読の気持ちよさを許せる人だ。第1章は黙読ではなく声に出すと一気に意味が立ち上がる。逆に、原文を一気に読み通そうとすると、前半で折れる。
読む順番としては、まず現代語訳か注釈付きの版で通読して、美登利の第14章から第16章を理解してから、原文に戻るのが現実的だ。そのうえで、第12章から第13章の鼻緒の場面だけ、原文で読み直す価値がある。一方で、子どもの友情物語や、はっきりした恋愛の成就を期待して読むと、肩透かしを食う。この小説が差し出すのは、成就ではなく、成就しなかった恋の、枯れない造花だ。
