結論:魔法のない「灰かぶり」は残酷で面白い。ただし主人公は最後まで受け身のままだ
グリム兄弟「灰かぶり(アッシェンプッテル)」は、ディズニー版のシンデレラを期待して読むと裏切られる童話だ。魔法使いも南瓜の馬車もなく、代わりに母の墓の木と鳥、そして血に染まった靴が出てくる。物語の骨格は強く、靴の試しの場面は何度読んでも怖い。一方で、主人公が自分の力で状況を動かす場面はほとんどなく、そこを欠点と見るかどうかで評価が割れる作品だ。
以下は、青空文庫で読める大久保ゆう訳「アッシェンプッテル ―灰かぶり姫のものがたり―」を全文読んだうえでの感想で、結末に触れる。
最小限のあらすじ
金持ちの家の娘が、病で死ぬ母から「いつもおもいやりのある子でいるんですよ」と言い残される。父が再婚し、継母と二人の連れ子の姉が来て、娘は灰まみれの台所仕事に追われ、「アッシェンプッテル(灰かぶり)」と呼ばれる。王が三日間の宴を開くと、娘は母の墓に植えた木の鳥に助けられて着飾って通い、三日目に金の靴を片方落とす。その靴に合う娘が花嫁になる、という話だ。
灰かぶりの原作で目を引く「母の墓の木」と鳥の役割
魔法使いの代わりに置かれた、母の墓という装置
この物語で一番うまいのは、助け手を「母の墓に植えたハシバミの枝」にした点だ。父が祭りの土産に、継姉たちはドレスや宝石を頼むのに、娘は帰り道で父の帽子に最初にひっかかった小枝でいい、と言う。その枝を墓のそばに植え、涙を水やりの代わりにして木が育つ。つまり娘の悲しみそのものが助けの源になっている。外から魔法使いが降ってくる話より、因果がずっと筋が通っている。
娘が木に唱える呪文も短くてよい。「ふるえて、ゆれて、小さな木、わたしに金銀ふりかけて。」この文句が三日間、そのまま繰り返される。繰り返しは、口承の物語に独特のリズムを作っていて、声に出して読むと効く。
三日間の宴が生む、少しずつ上がる緊張
宴は三日あり、ドレスは日ごとに良くなり、三日目には靴まで金になる。逃げ方も毎回変わる。一日目は飼育小屋に逃げ込んで鍵をかけ、二日目は洋なしの木の葉に隠れ、三日目は階段に塗られた油で靴が脱げる。王子が追う側として知恵を使い、最後に階段へ油を塗る流れは、段階を踏んだ追跡劇になっている。
さらに、家に帰った娘がすぐ灰の中に寝そべって見せる種明かしの段落が、毎回短く入る。「どうやったというと」という説明で、読者は逃走の手際を確認できる。小さな謎解きの構造を持っている点は、現代の読者にも通用する。
※ここから結末に触れます。
シンデレラの原型は靴の場面で最も怖くなる
見どころは靴の試しだ。上の姉の足が入らないと、継母はナイフを渡して言う。「おやゆびのひとつやふたつ、どうでもいいことになるわ。」姉は本当に親指を切って靴に押し込み、王子は一度だまされて姉を馬に乗せる。ここで、木の上の鳩が歌う。「くつの中は血だまりだ。」
この歌が、物語の最後に反転して使われるのがうまい。花嫁を乗せた帰り道、鳩は同じ場所で「くつの中に血はないね。」と歌う。同じ型の歌を、偽物の場面では告発に、本物の場面では祝福に使い分けている。短い物語に、きちんと伏線と回収がある。
灰かぶりの原作の欠点・違和感:主人公に主体性がない問題
灰かぶりは自分では何も決めない
書き手として一番気になるのは、主人公の行動のほとんどが「頼む」と「待つ」で終わる点だ。継母に宴へ行きたいと頼み、断られ、鳥に頼み、靴を拾われ、王子に見つけてもらう。自分の足で道を切り開く場面がない。母の遺言が「おもいやりのある子でいなさい」である以上、娘が従順であることは筋が通るのだが、それは人物が動かない言い訳にもなる。物語の中心にいながら、何も選ばない主役だ。
豆拾いの場面が二度繰り返され、流れが止まる
継母は娘に、灰にぶちまけた豆を二時間で拾えと言い、娘は鳥を呼んで終わらせる。すると継母は一皿を二皿に増やし、一時間で拾えと言う。娘はまた同じ言葉で鳥を呼び、約束は果たされ、それでも継母は「ドレスもない、ダンスもできないようでは、こっちがはじをかくだけだわ」と言って連れていかない。
口承の繰り返しとしては自然だが、紙の上で読むと、同じ展開が二度続くだけで何も進まない。二度目の試練は、条件が厳しくなっただけで、娘の反応も鳥の助け方も同じだ。ここは一回にして、継母の約束破りだけを強く書いたほうが、物語の怒りが濃くなったはずだ。
父親が最後まで責任を問われない
王子に「ほかに娘はいないのか」と聞かれた父親は、「いません。ただ、わたしのつれ子に、うすよごれたアッシェンプッテルというむすめがいます」と答える。この原文の通り、父は実の娘を「つれ子」と言ってしまう。本人は何も悪いと思っていない様子で、物語もこの発言を裁かない。罰を受けるのは継母と姉たちの側だけで、娘を守らなかった父は無傷のまま終わる。ここは座りの悪さが残る。
罰の場面が本文にない版と、ある版の落差
今回読んだ訳文では、本編は鳩が娘の肩にとまり、一緒に城へ行く場面で終わる。姉たちの目が鳩につつかれる結末は、「末尾に含まれることもある」という注記として添えられているだけだ。この結末を足すかどうかで、読後感はまるで違う。罰がなければ、継母たちは顔を青くしただけで、それ以上の報いはない。足せば残酷さが一気に増す。どちらの版でも、「いじめた側にどう報いるか」の設計が、物語の最大の分かれ目になっている。
同じグリムの童話でも、母親だけが罰される「ヘンゼルとグレーテル」の座りの悪さとは別の種類の引っかかりだ。気になる人はヘンゼルとグレーテル感想ネタバレ|母だけ罰される物語の座りの悪さも読むと、比べやすい。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
ディズニー版しか知らない人は、まず読んでほしい。同じ型の話でも、母の墓、涙で育つ木、鳥、血の靴という、まるで違う部品でできていることが分かる。9,000字ほどなので、30分もあれば読み終わる。
創作をする人にも向く。助け手を魔法使いにするか、母の墓にするかだけで、物語の因果と感情の濃さがこれほど変わるという、実例として使える。逆に、主人公が自分で戦う話を求める人には物足りない。その場合は、同じグリムのグリム「白雪姫」感想ネタバレ|王子が棺を奪う話の怖さも、受け身の主人公という点で比べ読みができる。
なお、この記事で引いた文は青空文庫の大久保ゆう訳による。訳によって文体も細部も違うので、別の訳で読むと印象が変わる可能性がある。



