結論:発想は大正文学屈指の鋭さ。ただし後半は同じ型の繰り返しで、心理は語り手が全部説明してしまう
菊池寛「忠直卿行状記」は、「手加減されていた」と知った殿様がどう壊れていくかを、一点に絞って書き切った歴史小説だ。着想の切れ味は間違いなく傑作の部類に入る。一方で、中盤以降は「怒る、人が死ぬ、淋しがる」の同じ型が何度も回り、登場人物の心の動きは語り手がほとんど言葉にしてしまう。発想で読ませる作品であって、描写の厚みで読ませる作品ではない、というのが私の評価だ。
最小限のあらすじ
大坂夏の陣で一番乗りの功を挙げた越前六十七万石の若き藩主・忠直は、祖父の家康から「日本樊」と褒められ、天下一の武将という自信を抱いて国へ帰る。ところが家中の若武士が「以前ほど、勝ちをお譲りいたすのに、骨が折れなくなった」と話すのを立ち聞きし、これまでの勝利がすべて偽りだったのではないかと疑い始める。真実の勝負を求める忠直の行動は、やがて家臣と領民を巻き込む乱行になっていく。
忠直卿行状記の何がすごいのか:「手加減」から始まる孤独の構造
第一章は「負けを知らない人間」を作るための仕込み
冒頭、家康に叱られた家老たちは、主君に報告することをためらう。理由は「生れて以来、叱られるなどという感情を夢にも経験したことのない主君」だからだ。その直後、忠直は叱責に逆上し、翌日の戦で大功を立てて家康に褒められ、自信を何倍にもふくらませる。叱責、挽回、賞賛と気持ちが大きく振れる序盤は、後の転落の落差を作るための設計になっている。大坂陣の戦闘描写が事典の記述のように固有名詞を並べるだけなのは物足りないが、人物の造形という点では、この章が全編の土台として十分に働いている。
立ち聞きの場面で、怒りの「中身」が反転する
最大の山場は第二章、萩の咲く夜の四阿だ。忠直は右近と左太夫の会話を聞き、「生れて初めて、土足をもって頭上から踏み躙られたような心持」になる。ここで作者が見事なのは、その怒りを「中核のところには、癒しがたい淋しさの空虚が忽然と作られている激怒」と書き分けた点だ。怒りの本体は侮辱ではなく、これまでの勝利の全部が疑わしくなったことへの喪失感である。また、忠直が声を出さずにいると、小姓が小さく咳をして二人に気づかせる。この一拍が、斬り捨てる・見逃すの二択を潰して物語を次の段階へ押し出す。小さな動作で場面を動かす手際は、書き手として素直にうまいと思う。
真槍仕合が示す「本物の勝負」の袋小路
翌日、忠直は「タンポの付いた稽古槍の仕合は、所詮は偽りの仕合じゃ」と言い、真槍での勝負を命じる。ところが左太夫も右近も、突かれて死ぬ覚悟で自分から槍先に身を当てにいく。本気で戦えば負けるはずの場面で、臣下は命を懸けて嘘を守ってしまう。真実を確かめる手段が、嘘を強化する結果になる。この皮肉が、忠直の「膜」の比喩(自分と臣下の間にかかった偽りの膜)につながる。権力者は、偽りをなくそうとするほど偽りを作ってしまう。この構図を二日間の仕合だけで見せたことが、この作品の核心だと私は考える。
注目したいのは、左太夫と右近が単なる追従者ではなく、「殿に偽りを悟られた」と知ったあとも、自分の罪として潔く死のうとする点だ。忠直の目には、彼らは嘘をつく臣下ではなく、嘘を命がけで守る臣下に映る。悪意のない忠義が主君を追い詰める。この逆説が成立しているから、のちの乱行が単なる暴君の狂気には見えず、読者は忠直に同情と不快感の両方を抱くことになる。同じ菊池寛でも、救いへ向かう「恩讐の彼方に」とは逆向きの物語だ。
※ここから結末に触れます。
与四郎の場面が、作品で一番「人間」が動いている
妻を奪われた浅水与四郎が匕首を持って忠直に飛びかかる場面は、文字どおり「膜」が破れる瞬間だ。忠直は与四郎の本気の殺気に初めて「人間同士として、向い合っている」感覚を得て、哄笑する。ところが与四郎夫婦はその夜に自害し、忠直は「あの襲撃も、手討ちにされるための芝居だったのではないか」と再び疑い始める。救いが見えた直後にそれが崩れる展開は残酷で、よくできている。結末の「豊後津守での晩年」も効果的だ。作中の行状記の一節では、国を失った時は悪夢から覚めたようだったとされ、寺の老僧は「殿の悪しきに非ず」と語る。暴君が百姓町人と碁を打つ穏やかな姿で終わるため、読後に残るのは断罪ではなく、「権力が人を壊す」という疑問だ。
忠直卿行状記の欠点・違和感:型の反復と、説明しすぎる語り手
死と淋しさの反復で、中盤が単調になる
第四章から第五章にかけて、増田勘之介は杯盤を投げられて切腹し、老家老の小山丹後は碁盤を蹴られて切腹し、妻を奪われた二人の夫も相次いで割腹する。型はほぼ同じだ。忠直に追従する、または機嫌を取る、忠直が不意に怒る、相手が死ぬ、忠直は「淋しく苦笑」する。丹後の件で一度、勝ちながら辱められた老人の無念が描かれて厚みが出るが、そのあとの切腹はただ数が増えるだけだ。各エピソードの順序を入れ替えても大勢に影響がない。クレッシェンドを狙った反復なのだろうが、読んでいる側は途中で結末の方向が見えてしまう。
心理がほとんど地の文で説明されてしまう
第五章で、忠直は絹野の居眠りを見て「この女も、自分に愛があるというわけでは少しもないのだ」と考え、続けて友情も恋愛も「服従の二字によって掩われて見える」と整理する。思考の流れは筋が通っているが、読者が場面から感じ取るべきことを、先に全部言葉にしてしまっている。絹野が目を閉じる仕草だけで十分に伝わるはずなのに、数百字の理屈が続く。この作品は観念小説としては優秀だが、人物を観念の運び屋にしてしまった分、絹野、丹後、与四郎の妻といった周辺の人物は輪郭が薄い。与四郎の妻に至っては、最後まで台詞らしい台詞がない。
暴君の核心と結末の反転が、伝聞と要約で処理されている
凶作の年に家老たちが年貢免除を願い出る場面で、忠直は百姓に同情しながら「ならぬ! ならぬと申せば、しかと相ならぬぞ」と拒む。「なんのために拒んだのか、彼自身にさえ分からなかった」という一文は、作品全体の中でも見事な洞察だ。ところが、その結果の領民の苦しみは一行も描かれない。「石の俎」の言い伝えも名前だけ挙げて「歴史にある通り」で済ませてしまう。忠直が最後に無辜の民へ刃を向けるくだりは、この小説の「暴君化」の終点であり、ここを省略したのは勿体ない。「臣下が忠直卿を人間扱いにしないので、忠直卿の方でも、おしまいに臣下を人間扱いにしなくなったのかも知れない」という締めの一文も、理屈が先に立ちすぎる。
改易をあっさり受け入れ、「ただすがすがしゅうこそ思い候え」と語る晩年の忠直像は、作品の主題を一気に回収する。ただ、ここまでの数章で膨らませた苦悩が、わずかな記録の引用で解消されてしまう点には、書き手として引っかかる。悪夢から覚めたような解放は、本来は忠直自身の場面として描くべきで、他人が記した報告書の口調で済ませるのは、主題を預けた先として軽い。史料風の体裁が、物語の締めを担う設計になっていて、構成としては巧みだが、情緒の面では不足が残る。
立ち聞きという仕掛けが、少し都合よく働いている
物語全体が、夜の庭で偶然二人の会話を耳にするという一点に依存している。忠直が酒宴を抜けて庭に下りる流れは自然に書かれているが、それでも「たまたま聞いた」ことで人生観が崩れる展開は、構造として脆い。もし立ち聞きがなければ、忠直は偽りの勝利を信じたまま、凡庸な名君で終わったかもしれない。主題が人間関係に潜む必然ではなく、偶然に頼っているため、「権力者は必ず孤独になる」という普遍的な話としては、やや説得力を欠く。大坂陣の功名で家康に褒められた自信が、あまりに簡単に崩れる点も含めて、作者の意図が先行している印象を受けた。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
向いているのは、「権力を持つ人間の孤独」「周囲が本音を見せない苦しさ」といった主題に関心がある人だ。短編集の一本として一時間ほどで読める分量なので、菊池寛の入口としても悪くない。人物の深い描写や、ひたすら重厚な歴史劇を求める人には、やや観念が先立つように感じられるだろう。
読むときのコツは、第二章の立ち聞きから第三章の真槍仕合までを一続きの山場として読み、第四章以降の乱行は「同じ型がどう変奏されるか」を観察するつもりで追うことだ。そうすると、勘之介、丹後、与四郎と進むにつれて、忠直が求めるものが「勝利」から「反抗してくれる人間」へ移っていることが見えてくる。反復の単調さは残るが、段階を踏んで主題が深まる構成だと分かり、読後の評価は少し上がるはずだ。
菊池寛の作品をほかにも読むなら、赦しと敵討ちの結末を扱った「恩讐の彼方に」と読み比べると、「人が人を許す」物語と「人が人を信じられなくなる」物語の対照が分かりやすい。家族の関係を短く切り取った「父帰る」も、短時間で読める菊池寛の代表作だ。



