賢治「やまなし」感想ネタバレ|クラムボンの正体は不明でいい?

結論:意味は解けなくていい。ただし「解けない」ことに寄りかかった作品でもある

「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」この一行を、意味も分からないまま口に出したくなったら、宮沢賢治「やまなし」は勝ちだ。青空文庫の表示で約3,200字、読むのに10分もかからない。音と色と光の密度は、賢治の童話の中でも指折りだと思う。

一方で、物語としては何も解決しない。主人公の蟹の子供らは何も選ばず、何も成し遂げない。「面白い話」を期待して開くと置いていかれる。美しさは一級、物語の推進力はほぼゼロ。この偏りを承知で読む人向けの作品だ。

最小限のあらすじ

作品は「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です。」という一文で始まる。一枚目「五月」では、蟹の子供ら二疋が「クラムボン」の話をしているところへ、魚が上を通り、突然飛び込んできた鳥に連れ去られる。二枚目「十二月」では、成長した兄弟が泡の大きさを競っていると、「やまなし」が落ちてきて、父の蟹と三疋で後を追う。

クラムボンの正体とやまなしの意味を読み解く:独自の深掘り

クラムボンの正体を決めないことで、音だけが残る

クラムボンが何者かは、作中のどこにも書かれていない。子供らは「クラムボンはわらったよ。」「クラムボンは死んだよ。」「クラムボンは殺されたよ。」と、同じ型の短い文を交互に言い合う。注目したいのは、笑うと死ぬが同じ温度で並ぶ点だ。兄が「それならなぜ殺された。」と問うても、弟は「わからない。」としか返せない。

正体を泡や光、あるいは小さな虫と読む説明はいくらでも作れるが、どれも作品の外から持ち込む仮説にすぎない。確かなのは、子供らにとってクラムボンが「理由なく笑い、理由なく死ぬもの」として存在していることだ。ここで効いているのは意味ではなく、「かぷかぷ」というオノマトペの語感と、短文の反復が作る拍である。

五月の恐怖と十二月の安心:鳥の影から果実の匂いへ

二枚の幻燈は、構図がはっきり対になっている。五月は、上から青い鳥が落ちてきて魚が消える話。十二月は、上から黒い円いものが落ちてきて、それが鳥ではなく果実だったと分かる話だ。「トブン。」と落ちたものに、子供らは反射的に「かわせみだ」と首をすくめる。五月の記憶が体に残っているのだ。

ここで父の蟹が「遠めがねのような両方の眼をあらん限り延ばして、よくよく見てから」と確かめる描写が地味に上手い。五月に「そいつは鳥だよ。かわせみと云うんだ。」と告げた父が、今度は「そうじゃない、あれはやまなしだ」と訂正する。恐怖を教える親が、恐怖でないものも教える。短い作品の中で、子供らの学習が一往復して見える。

「おれたちはかまわないんだから」が示す、冷たい安心

五月の父の言葉は、慰めとしては少し冷たい。かわせみについて「大丈夫だ、安心しろ。おれたちはかまわないんだから。」と言う。魚について聞かれると「魚はこわい所へ行った」と答えるだけだ。助かった側の安心と、連れ去られた側への無関心が同居している。弱肉強食をきれいに描くのでも、道徳に回収するのでもなく、「自分たちは襲われない」とだけ告げる。この距離感が、死を扱いながら湿っぽくならない理由だと思う。

※ここから結末に触れます。

やまなしは救いか、ただの季節の贈り物か

結末で父は、やまなしが「もう二日ばかり待つとね、こいつは下へ沈んで来る、それからひとりでにおいしいお酒ができる」と言い、親子は穴に帰る。幻燈は「私の幻燈はこれでおしまいであります。」で閉じる。五月の死が、十二月の豊かさで報われるわけではない。魚は戻らないし、クラムボンが何だったかも説明されない。

だから「救い」と読むなら、それは読み手が足す意味だ。作品が差し出しているのは、恐怖の季節の次に、匂いのいい季節が来るという事実だけである。私はこの控えめさを美点と取る。ただ、同じ作者の『銀河鉄道の夜』や『グスコーブドリの伝記』のように、死に明確な意味づけをする作品を先に読んだ人には、拍子抜けする可能性が高い。

説明のなさは美点か逃げか:忖度なしの欠点・違和感

物語として何も起きない:兄弟の変化が見えにくい

五月の兄弟は恐怖で「声も出ず居すくまって」しまい、十二月には泡の大きさで言い争う。時間が経って成長したことは分かるが、その間の出来事は完全に省かれている。成長の描写は「底の景色も夏から秋の間にすっかり変りました」という環境の変化に預けられ、子供ら自身の内面の変化は読み取れない。構成として潔い反面、読み手が人物に感情移入する足場はほぼ与えられない。

泡の大きさ争いは、本当に必要な場面か

十二月の前半は、兄弟の泡の比べ合いに費やされる。「近くだから自分のが大きく見えるんだよ」という兄の理屈や、泣きそうになる弟の描写は微笑ましいが、後半のやまなしとの接続が弱い。日常の細部として置かれたのだろうが、このやりとりは、五月の「死」と対にする重さをもっていない。五月と十二月を対にするなら、十二月側にも子供らが何かに揺さぶられる瞬間が欲しかった。

「分からなさ」が評価の逃げ道になっていないか

クラムボンの正体が不明、二つの幻燈の関係が不明、意味づけも読者任せ。この作品について語られる解釈の多さは、作品の豊かさの証拠とも言えるが、同時に「何を書いても間違いにならない」という書き手にとって都合のいい状態でもある。創作者の立場から言えば、曖昧さは、曖昧にする理由が作品内で支えられて初めて強みになる。「やまなし」はそれを音の快感で乗り切っており、成功しているが、同じ手法を物語性の強い作品に持ち込めば、ただの説明不足になる。賢治自身が『注文の多い料理店』や『風の又三郎』では輪郭のはっきりした筋を作っている点と比べると、この作品の特殊さが分かる。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

  • 筋よりも、声に出したときの音や、水中の光の描写を味わいたい人
  • 賢治の長めの代表作を読み終えて、もっと短く凝縮された作品を探している人
  • 解釈を自分で組み立てるのが好きな人(教科書で一度読んだきりの人の再読にも向く)

逆に、起承転結のある物語や、明確なメッセージを求める人には向かない。賢治が初めてなら、先に注文の多い料理店や風の又三郎の感想記事を見て、筋のはっきりした側の賢治に触れてからのほうが、この作品の特殊さが分かりやすい。「やまなし」は1923年4月8日の「岩手毎日新聞」が初出で、青空文庫で無料で読める。10分あれば足りるので、まず一度声に出して読んでほしい。