結論:徳永老人が槌を振る一場面だけで読む価値がある。ただし主役のはずの娘は最後まで輪郭が薄い
岡本かの子「家霊」は、一万字ほどの短編のなかに、忘れがたい場面がひとつ、置き去りにされた主人公がひとりいる作品だ。どじょう店の店先で老彫金師が片切彫の所作を見せる数ページは、かの子の文章の熱量が最もよく出ている。一方で、物語の軸であるはずの娘くめ子の心の動きは、母親の台詞と地の文の説明に頼って片づけられる。人物の魅力で読ませる小説を求める人には物足りず、場面の迫力と文体を味わいたい人には、短いぶん手に取りやすい。
最小限のあらすじ
山の手の坂道にある、どじょう料理の老舗「いのち」。女学校を出て家出同然に職業婦人になっていたくめ子は、母の病気で呼び戻され、店の帳場に座っている。この家の女は代々、帳場を守る役目を背負わされてきた。くめ子はその宿命が嫌でたまらない。そこへ、百円以上のつけを溜めた彫金師の徳永老人が、毎晩のようにどじょう汁をねだりに来る。
「家霊」の魅力:どじょう店「いのち」と徳永老人の片切彫を読み解く
洞窟のような店の描写が、そのまま主題の入口になっている
冒頭の店内描写は強い。煤で黒く染まった壁と天井、剥き出しのシャンデリア、客の箸でしごかれた魚の骨が「枝珊瑚」に見える光。その光景を、かの子は「餓鬼の饗宴染みて」と言い切る。さらに暖簾の「いのち」に、青年たちが「疲れた。一ついのちでも喰うかな」「逆に喰われるなよ」と軽口を叩く。この二行で、「いのち」という語が、食べ物の名であり、人が喰われるものでもあるという二重の意味を持つことが、説明なしに伝わる。導入としてよくできている。
槌が鏨の手前でぴたりと止まる、片切彫の所作の場面
最大の見せ場は、徳永が店の者たちの前で片切彫を演じる箇所だ。老人はまず、普通の彫金の「いぎたなさと浅間しさ」を落語家のように誇張して笑わせ、それから姿勢を正して本物の構えに戻る。右腕を肩の付け根から大きな弧で振り下ろし、槌は鏨の手に届く寸前の「定まった距離でぴたりと止まる」。くめ子はそれを、石膏像の円盤投げの青年の腕に重ねる。
ここで上手いのは、芸の見事さを技術の用語で説明せず、見ている側の身体の反応で書いていることだ。出前持も小女も「引緊められるものがあって」炉から身体を起こす。笑いと緊張を同じ場面に置くから、直後に老人の話が結局「どじょうでも食わにゃ遣りきれん」に落ちたときの落差が効く。威厳と滑稽が一人の人物に同居する。
かの子らしい、生き物の「いのち」への濃い執着
後半の夜、老人はどじょうについてこう語る。「食われる小魚も可哀そうになれば、食うわしも可哀そうだ。誰も彼もいじらしい。」食べる側と食べられる側を同じ高さに置いてしまう感覚は、食べ物と生命、老いと欲望を同じ皿に盛るこの作家らしさそのものだ。同じ作家の「鮨」や「老妓抄」の感想とあわせて読むと、比べやすい。
※ここから結末に触れます。
「家霊」の欠点・違和感:くめ子の変化と母の告白、結末の宙づりを検証する
くめ子の転機が「いのちの呼応」という一語で済まされる
老人にせがまれたくめ子は、誰もいない料理場で、酒に漬かったどじょうを自分の手で鍋に移す。握った指の中で小魚が動き、その震えが心に伝わって「いのちの呼応」と囁かれる、と地の文が言う。つまり、あれほど家を嫌っていた娘が変わる瞬間を、作者が名前を付けて報告しているのだ。くめ子の嫌悪は冒頭に長く書き込まれていただけに、その反転は、身振りや台詞ではなく言葉の説明で済まされたように見える。創作の視点から言えば、嫌悪の裏返しになる具体的な行為がもう一つ欲しい。たとえば、彼女がどじょうの味を口にする一行があるだけで、変化は説得力を持ったはずだ。
母の長い台詞が、主題を言い切ってしまう
癌と宣告された母は、早春の日向で、代々のおかみは亭主に放蕩され、それでも辛抱していると「誰か、いのちを籠めて慰めて呉れるものが出来る」と語る。徳永と母の関係に何があったのかは、前の夜の老人の語りでおおよそ分かっている。そこへ母本人の口で同じ意味をもう一度言わせるので、読者が行間から読み取る余地が狭くなる。唯一よいのは、母が琴柱の箱を頬に当て、「これだけがほんとに私が貰ったものだよ」と言って簪の音を鳴らし、娘のような声で笑う箇所だ。この動作だけで足りたのに、と思う。
作者の顔出しと、家と代々の女という設定の使い方
老人が仕方話をする場面に、「作者はこの老人が此夜に限らず時々…ここに紹介する」という地の文が入る。語り手が舞台の外から口を出して流れを止めており、せっかくの臨場感に水を差す。また、題の「家霊」にあたる、家に代々憑いて女たちを縛るものは、本文を通して読んでも、その語としては出てこない。縛りは「おかみは亭主に放蕩される」という繰り返しで示されるが、放蕩する男たちは名前も顔も出ない。そのため、家の呪いは母の言葉から知るだけの伝聞に留まり、場面として迫ってこない。
結末は閉じていないのではなく、描き切る前に終わっている
最後は、くめ子が学生たちと口笛を吹いて坂の上まで出ても、「店が忙しいから」と一人で店に帰って窓の中に座り、徳永は瘠せ枯れながら毎晩どじょう汁をせがみに来る、と終わる。くめ子が宿命を引き受けるのか、誰かを選ぶのかは決まらない。余韻としては悪くないが、母の告白で「次はお前の番だ」と準備された展開が、結論なしに止まる。老人の死も、くめ子の恋も、事件としては起きない。意図的な宙づりだとは思うものの、母の予告と老人の衰弱が示された以上、読者が受け取る手応えは「途中で切れた」に近い。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
筋の起伏や人物の成長を求める人には向かない。向くのは、一場面の描写の濃さと、食べ物や生き物を通して「いのち」を語る文体を味わいたい人だ。青空文庫で一万字ほどなので、片切彫の場面だけでも読む価値はある。徳永とくめ子の物語の続きを自分で想像したくなるなら、この作品は成功している。逆に、きちんと着地させてほしい人は、同じ作家の「金魚撩乱」の感想も併せて、読む順番を決めるとよい。底本の初出は「新潮」1939(昭和14)年1月号とされている。



