孔乙己の感想ネタバレ|十九銭と「たぶん死んだ」の結末を辛口評価

結論:笑う側に読者を座らせて最後に梯子を外す、数頁の仕掛け。ただし説明は少し親切すぎる

魯迅「孔乙己」は、貧しい読書人の没落を、酒場の笑い声だけで描ききる短編だ。読者は最初、客たちと一緒に孔乙己をからかって笑う。その笑いが最後の一行で自分に返ってくる構造は見事で、短さを考えれば効率は驚異的だと思う。

一方で、人物の来歴を「人の噂では」の一段落でまとめて語る箇所は、小説としては説明に寄りすぎている。傑作の側に入れてよい作品だが、完璧ではない。ここではその穴も含めて書く。

最小限のあらすじ

舞台は魯鎮の酒場・咸享酒店。十二歳で店の小僧になった「わたし」は、燗番をしながら、立ち飲み客で唯一、長衫(丈の長い服)を着た孔乙己を見てきた。孔乙己は科挙に受からず、字の写しの仕事も酒で失い、ときどき盗みをする男で、客たちの笑いものだ。ある日、彼は腿の骨を折って這って現れ、やがて来なくなる。

※ここから結末に触れます。

孔乙己の結末の意味と、笑い声の構造を読む

「たぶん孔乙己は死んだに違いない」が冷たく効く理由

結末は「たぶん孔乙己は死んだに違いない。」の一文だ。「たぶん」と「に違いない」が同居しているのが肝で、語り手は死を確認していない。誰も確認しようとしない。死んだと断言しない曖昧さが、そのまま周囲の無関心を写している。

これを支えているのが帳簿の描き方だ。番頭は黒板を見て「孔乙己はしばらく出て来ないが、まだ十九銭残っているよ」と言う。ここで彼が気にかけているのは人ではなく貸しだ。年末にも、次の年の端午にも同じ台詞が繰り返され、中秋節には「もうなんにも言わなくなった」。貸しの話題が消えたことが、孔乙己が世界から消えたことの合図になる。死の描写を一行も書かず、帳簿の沈黙で死を伝えるのは、書き手として真似したくなる処理だ。

茴の字の四つの書き方が、いちばん痛い場面である

孔乙己が小僧に「茴香豆の茴の字は、どう書くんだか知ってるかえ」と試験をする場面は、ここだけで人物が完成している。彼は誇れる知識を、相手になってくれる子供にしか披露できない。指先に酒をつけて櫃台に字を書き始めるが、小僧が冷淡に遠のくと「真から残念そうに溜息を吐いた」。

この知識は何の役にも立たない。帳場でも茴香豆の字は書かれないと小僧は気づいている。実社会に使い道のない教養にすがる姿が、笑える形で出されているから、読者は笑ってから痛みに気づく。子供たちに豆を分けたあと、皿を手で覆って「多からず、多からず、多乎哉多からざる也」と言う場面も同じ仕組みで、愛すべき滑稽さと哀れさが一つの動作に畳まれている。

語り手が小僧であることの意味は何か

語り手は酒場の下働きの子供で、読書人でも客でもない。孔乙己を見下ろしても見上げてもいない中間の立場が、観察を冷たく保つ。小僧自身も一緒になって笑う。「この場合わたしが一緒になって笑っても番頭さんは決して咎めない」。語り手が加害の輪の中にいることを隠さない点で、読者は逃げ場を失う。

同じ作家の「故郷」が、語り手の内面の揺れを前面に出して距離の隔たりを描くのに対して、本作は語り手の内面をほとんど書かない。その削り方の差が、読後感の冷たさの差になっている。

孔乙己の欠点・違和感:説明の親切さと、語り手の空白

来歴を「人の噂では」でまとめる段落は説明に寄りすぎている

孔乙己が学校(科挙の入口)に入りそこない、貧乏になり、書き写しの仕事を酒で失い、盗みに手を染めるまでの経緯は、「人の噂では」から始まる一つの段落で一気に語られる。便利だが、それまで酒場の場面で一つずつ見せてきた作りに比べると、ここだけ要約になっている。

書き手の目で見ると、これは削れる箇所だ。「窃書は盗みの数に入らない。窃書は読書人の為す事で盗みの数に入るべきことではない」という台詞と、顔の傷、「お前はどうして半人前の秀才にもなれないのだろう」という野次だけで、没落の筋は読者に伝わっている。説明を足したぶん、読者が推理する余地は減った。

小僧の罪悪感が書かれず、「冷たさ」が作者の都合に見える

「こういう風に孔乙己はいつも人を愉快ならしめているが、自分は決してそうあろうはずがない」という一文は、語り手が孔乙己の側の苦しさに触れかけた唯一の箇所だ。ところがその直後、場面は中秋節前の帳〆めに移り、小僧の心はそれ以上掘られない。

無関心という主題を貫くなら、これで良いという見方もできる。ただ、腿を折られた孔乙己が這って来たとき、小僧は燗酒を運ぶだけで終わる。ここでほんの一瞬でも反応があれば、結末の「たぶん死んだに違いない」に語り手自身の責任が重なったはずだ。冷たさが効いている反面、語り手が作者の装置に近づきすぎている印象は残る。

腿を折られた経緯が「聞いた話」止まりで、事件が遠い

孔乙己の運命を決める事件は、丁挙人の家に入って叩かれたという酒場の客の会話だけで済まされる。「それからどうした」「それから腿が折れたんだ」という掛け合いは巧みだが、被害の中身は客の無神経な口調の向こうに隠れる。

これは意図的な省略だろう。ただ、孔乙己本人は「高い所から落ちたんだ。落ちたから折れたんだ」とごまかすだけなので、権力の暴力が物語の中心にあるのに、読者はそれを具体的に見ない。暴力の恐ろしさを読みたい人には、輪郭が薄いと感じるはずだ。

井上紅梅訳の古さと、背景知識の壁

青空文庫で読める井上紅梅訳(底本は改造社『魯迅全集』、1932年)は、「乃公」「櫃台」「袢天著」といった言葉が並び、現代の読者には読みづらい。孔乙己の「之乎者也」の台詞が、原文でどんな響きなのかも訳文だけでは見えにくい。

加えて、「半人前の秀才にもなれない」という野次がなぜ決定的に痛いのかは、科挙の制度を知らないと伝わりにくい。末尾に「一九一九年三月」とあるが、この時代背景を補う注はない。予備知識なしで読む人は、孔乙己を単なる変わり者と受け取る危険がある。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

  • 短い小説で「構造」を学びたい書き手。笑いを積んでから梯子を外す作りは教材になる
  • 魯迅を初めて読む人。「狂人日記」のような直接の告発に比べて、本作は読みやすく、作家の核にも触れられる
  • 「見ていたのに何もしなかった側」の話に弱い人。読後にしばらく引きずる

逆に、事件の山場や劇的な救いを求める人には向かない。五千字ほどで読み終わる小説なので、まず通読してから、茴の字の場面と十九銭の黒板の場面だけをもう一度読み返してほしい。二度目に読むと、笑った箇所の意味が変わっている。