「キリストのヨルカに召された少年」感想ネタバレ|救いは甘いか

結論:前半の街歩きは掌編の最高水準。ただし後半の天国は、読者に涙を前払いさせる

六つになったかならないかの子どもが、クリスマス前夜の街で凍えて死ぬ。ドストエフスキー「キリストのヨルカに召された少年」は、その一夜を青空文庫の表示で約5,700字に収めた掌編だ。少年の目に映る街の描写は、短さを忘れるほど具体的で強い。一方で、少年が死んだあとの天国の場面は、読者の同情を前提に組み立てられていて、救いとして読むには押しつけが強い。前半だけなら傑作、全体では「劇薬になりきれなかった泣かせ話」というのが私の評価だ。

最小限のあらすじ

クリスマスの前夜、ロシアの大きな町の地下室で、六つほどの少年が腹をすかせている。病気の母は寝床で動かなくなっていて、少年はそれを知らないまま、外の街へ出ていく。ガラスごしのクリスマス・ツリーや菓子に目を奪われ、追い立てられ、殴られ、やがて他人の家のまきの陰に逃げこむ。少年はそこで眠りかけ、「エスさまのクリスマス・ツリー」を見る。

少年の目で歩く街が怖い:「キリストのヨルカに召された少年」の独自の深掘り

「ああ」「おや」で進む視点の低さ

この作品の肝は、語りが少年の知覚にぴったり貼りついていることだ。街に出た少年は「見ると、ああ、なんてすばらしい町だろう」と驚く。空腹で死にかけている子にとって、この町はまず「まぶしくて、にぎやかな場所」なのだ。「だが、何か食べたいなあ。ほんの切れっぱしでもいいんだがなあ。」と、感嘆の合間に空腹が何度も割りこむ。驚きと飢えが交互に来るリズムが、子どもの注意の移ろいやすさをそのまま文章にしている。神西清訳のひらがなの多い柔らかな日本語が、このリズムをよく支えている。

ガラスの向こうの世界と、落ちた銅貨

少年が見るものは、すべてガラスの向こうにある。ツリーのある部屋、菓子の並ぶ店、三体のヴァイオリン弾きの人形。人形が口を動かしているのに「ガラスの向こうなので、聞えないだけなのだ」と書かれる場面は、この物語が何を描いているかを一枚の絵にしている。温かい世界は見えるが、声は届かない。

もっとも残酷なのは、菓子屋の場面だ。少年は奥さんから一円銅貨をもらうが、指がかじかんで曲がらず、銅貨は入口の石段に落ちて鳴る。親切がそもそも受け取れない身体になっている、という描き方は、善意の有無とは別の次元で貧困を見せていて、ここは見事だ。

凍死へ向かう「ぽかぽか」の描写

まきの陰にしゃがんだ少年は、「まるでストーブにあたっているように、ぽかぽかとても暖かくなった」と感じる。痛みが消える感覚が、そのまま死の接近の合図になる。少年は「もうすこし、ここにしゃがんでいて、あとでまた、あの人形を見に行こう」と考えて、にっこりする。死の直前の計画が人形見物の続きであることが、読む側にはつらい。この静かな転換は、長い説明を一切しない分だけ効いている。

見られる側から見る側へ:ガラスの比喩が天国で反転する

前半で少年は、ずっと窓の外から中を覗く側にいる。ツリーの部屋も菓子屋も人形も、自分は入れない世界として描かれる。ところが天国の場面では、少年がツリーの内側に立つ。ガラスという境界が消えることが、救いの内容そのものになっている。この反転は構成として美しく、短い作品に往復の運動を与えている。ただ、境界が消える唯一のきっかけが少年の死であることは、美しさと引き換えに重く残る。街で届かなかった声が、天国でようやく届く。その代償を作者が少年に払わせていることを、読者は忘れないほうがいい。

※ここから結末に触れます。

天国の場面がなぜ甘く見えるのか:忖度なしの欠点・違和感

天国の子どもたちの死因が並びすぎる

少年が運ばれた「エスさまのクリスマス・ツリー」には、同じ境遇の子どもたちがいる。捨て子にされてこごえ死んだ子、乳母に添え乳をされて息がつまって死んだ子、飢饉のとき乳の出ない母の乳首をくわえたまま死んだ子、三等車の人いきれで息が詰まって死んだ子。死因が羅列されるこの箇所は、社会の現実を広く見せる狙いは分かる。しかし、それまで少年ひとりの知覚に寄り添っていた視点が、ここで急に報告書めいた俯瞰に変わる。ひとりの少年への集中が、数え上げによって薄まってしまう。創作の立場から言えば、ここは並べるより一例を深く掘ったほうが、読者の胸に残ったはずだ。

母が先に死んでいたという処理の、都合のよさ

結末は短い。翌朝、門番が少年の小さな遺体を見つけ、母は息子よりひとあし先に死んでいた。そしてふたりは「天へのぼって、神さまのみもとでめぐりあったのだ」。母の死は冒頭から示されているので、伏線の回収としては整っている。ただ、この一文で物語が閉じることで、少年が街で味わった恐怖と空腹は、すべて「再会のための道のり」に変換される。読者が抱えるはずの怒りや居心地の悪さを、物語が先回りして鎮めてしまう。この締め方は、死んだ子どもへの優しさであると同時に、作中の社会を免責する働きもしていると感じる。書き手の立場で言えば、母の死をもっと遅く、たとえば少年が街を歩いている最中に読者だけが知る形で明かしていれば、再会の一文はもっと痛く働いたはずだ。結末を先に安心へ寄せてしまうので、読後に残る重さが薄くなる。

少年の死に誰も関わらない

警察に連れて行かれた宿のおかみ、酔いつぶれた男、うなるだけの老女、気づかないふりをする巡査、銅貨を押しこんで追い出す奥さん。街の大人たちは少年に冷たいが、誰も悪意を持たない。そのため少年の死は、特定の誰かの責任ではなく、天候のような不運に見える。悪意が描かれない分、かえって怒りの向け先がなくなり、最後の天国が唯一の救いの出口として強く働く。構成としては筋が通っている。だが、なぜこの子が死んだのかという問いを、天国の光で上書きして終わらせる点は、辛口に言えば弱さだ。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

約5,700字なので、短時間で一編を読み切りたい人には向いている。子どもの視点で書かれた語りの技術を見たい人、クリスマスの時期に短くて重い物語を探している人にも合う。長編「罪と罰」の理屈や重さを期待すると、肩すかしを食らう。同じドストエフスキーでも、救いの扱いを比べたいなら、囚人が幼い日の記憶に救われる「百姓マレイ」が読み比べやすい。人間関係の毒を見たいなら「永遠の夫」のほうが合う。

天国の場面をどう受け取るかで、この作品の評価は割れる。慰めとして受け取れる人には、短い名作だ。受け取れない人には、前半の凍える街の描写だけが長く残る。どちらの読者にも、前半の数ページは読んでおく価値がある。