結論:前半の殉死の描写は鳥肌もの、ただし主役の一族が後半で背景に退く、偏った傑作
森鴎外「阿部一族」は、「死ぬことを許されない」という一点から、一つの家が滅びるまでを淡々と追った歴史小説だ。殉死の場面の怖さは、日本の近代小説でも指折りだと思う。一方で、題名になっている阿部一族自身は、最後の討ち入りで急に影が薄くなる。評価は高いが、構造には明確な歪みがある。
読む価値は十分にある。ただし「阿部一族の悲劇を感情移入して味わう小説」を期待すると肩透かしを食う。これは人の心の動きを描く小説というより、制度が人を殺す過程を、感情を抑えて記録した小説だからだ。
最小限のあらすじ
寛永十八年(1641年)、肥後熊本の藩主・細川忠利が亡くなり、家臣十八人が許しを得て殉死する。忠利に何度願っても許されなかった阿部弥一右衛門は、家中の悪口に耐えかねて自ら切腹するが、「許されずに死んだ者」として跡目の扱いを落とされる。嫡子の権兵衛は一周忌の席で髻を切って処刑され、残された一族は屋敷に立て籠もって討手と戦う。
「阿部一族」の殉死はなぜ起きたのか:前半に仕込まれた構造の読みどころ
鷹と犬まで「殉死」する場面が、制度の空気を一発で伝える
冒頭の岫雲院の場面がうまい。忠利の荼毘の最中、二羽の鷹が井戸に飛び込んで死ぬ。それを見た人々は「それではお鷹も殉死したのか」とささやき、原因を調べようとする者は一人もいない。本文は「それを疑って別に原因を尋ねようとする余地はなかったのである」と書く。ここで読者は、この藩では「殉死した」という解釈が、事実の確認より先に立つ世界に入ったと分かる。
後半の津崎五助の場面は、これを人間の側から繰り返す。身分の低い犬牽きの五助は、握り飯を二つ置いて、犬に「死にたいと思うなら、食うなよ」と語りかけ、犬が食わないのを見て刺し殺す。滑稽と悲惨が同時に来るこの場面は、殉死が主従の情というより、周囲の空気に合わせた儀式になっていることを示している。
内藤長十郎の「弱み」を書き込んだ一節が、この作品の核だ
長十郎が忠利の足を額に押し当てて殉死を願う場面の後、鴎外は彼の心中に踏み込む。自分の発意で死にたい気持ちと、「人が自分を殉死するはずのものだと思っているに違いない」から死なねばならない気持ちが「ほとんど同じ強さに存在していた」という分析だ。殉死が純粋な忠義ではなく、屈辱への恐れとも不可分だと、人物の内側から言い切っている。
その直後、長十郎は母と妻の前で酒を飲み、昼まで鼾をかいて眠る。風鈴、やんまの止まった柄杓といった小道具だけで、家中が口に出さない覚悟を共有している様子を描く。ここまでが前半の山で、文章の冷たさが最も効いている。
阿部弥一右衛門の「意地」は、愛されない男の造形として出色
弥一右衛門は、忠利に顔を見ると反対したくなる癖があり、それが積もって殉死の許しだけが降りなかった。鴎外は「好きな人、いやな人というものがある。そしてなぜ好きだか、いやだかと穿鑿してみると、どうかすると捕捉するほどの拠りどころがない」と書く。理由のない相性の悪さが、一人の侍の死に方を決めてしまう。この理不尽さの見せ方は見事で、制度の話が個人の話として刺さってくる。
感情を語らず、小道具と報告で温度を作る文体の仕組み
この作品の怖さは、登場人物が嘆かないところから来ている。長十郎の覚悟は風鈴や柄杓といった物の描写に移され、十八人の殉死は「誰がいつ、どこで腹を切った」という報告の連なりとして並ぶ。読者は悲しみを指示されないぶん、自分で行間を埋めることになり、その作業が恐怖を内側から育てる。創作の側から見ると、感情語を削って事実を並べる手法は、削った量だけ読者に負荷をかける賭けだ。前半ではその賭けが当たっている。
この冷たさは、後半に入ると少しずつ別の働きをし始める。同じ報告調が、阿部一族の死を語るときには、前半のような怖さではなく、ただの素っ気なさとして響いてしまう。文体の長所と、次の欠点の章で述べる配分の問題は、実は同じ根から出ている。
※ここから結末に触れます。
「瓢箪に油を塗って切る」という悪口が、切腹の理由になるまで
弥一右衛門は、許されずに生きていることを「腹の皮が人とは違う、瓢箪に油でも塗って切ればよい」と嘲られる。彼は子供たちを集め、「この弥一右衛門が腹は瓢箪に油を塗って切る腹じゃそうな。それじゃによって、おれは今瓢箪に油を塗って切ろうと思う」と言って腹を切る。悪口をそのまま演じて見せるこの死に方は、殉死が忠義でなく、体面の勝負であることを最も露骨に示す。
しかも、息子たちが父の死に「重荷の一つをおろしたように感じた」と書かれるのが残酷だ。父の死は一族にとって救いにならず、むしろ侮辱の起点になる。
阿部一族の結末に違和感が残る理由:忖度なしの欠点を挙げる
題名の「一族」が、討ち入りの場面で人物として立たない
最大の不満はここだ。阿部一族が屋敷に籠もって討たれる最終章は、視点が討手側の竹内数馬や高見権右衛門、柄本又七郎に移り、阿部の兄弟は「槍を交える相手」に近くなる。市太夫、五太夫、七之丞は、討ち入りの場面で数行のうちに「深手に息が切れた」と処理される。一族が自分で死を選んだ理由の一部は前半に描かれているが、最後の局面で彼らが何を思っていたかは、ほとんど語られない。
老人と女は自殺し、幼い者は刺し殺され、庭に穴を掘って埋める、という決定的な場面も、わずか数行の報告で終わる。もちろん抑制は鴎外の文体だが、題名になった人々の最期にこそ、もう少し具体的な描写を置くべきだったと思う。この簡潔さは、冷徹というより配分の失敗に見える。
竹内数馬の章が長く、全体の重心を奪っている
数馬の家系、島原での初陣、脇差の由来、討ち入り前夜の支度と、数馬の章はかなりの分量を使う。心理描写としては立派だ。「殉死した人たちは皆安堵して死につくという心持ちでいたのに、数馬が心持ちは苦痛を逃れるために死を急ぐのである」という一文は、殉死できなかった者の苦しみを鮮やかにまとめている。
ただ、これは「殉死しなかった者が死に場所を探す」という、前半の弥一右衛門の話の言い換えでもある。同じ主題が二度出るので、阿部一族の悲劇が数馬の悲劇に重ねられて、焦点が割れる。しかも数馬は、読者に見えない場所で討ち死にし、「表門から一足先に駈け込みましたので見届けません」の一言で処理される。長く積んだ分の回収が、薄い。
末尾の後日談が、悲劇の後味を別方向へ引っ張る
結末は、又七郎が「阿部一族討取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子じゃ」と笑い、弥五兵衛の傷が誰よりも立派だったので「いよいよ面目を施した」と終わる。皮肉としては強烈で、勝者の側の武士の論理が、人の死を手柄の話に変えてしまう空気を、冷たく描いている。
ただし、この終わり方は読後に残る感情が「悲しい」より「呆れる」に近い。書き手としては意図が理解できるが、一族に寄り添って読んできた読者の感情の置き場が、最後で奪われる。好みの問題として片づけず指摘するなら、後日談が列挙的で、読者の感情を受け止める箇所が結末に用意されていない点が弱い。
光尚と外記の造形が薄く、悲劇の「原因」が軽く見える
阿部家の俸禄を割く案を出した林外記は「小才覚があるので」「苛察に傾きたがる男」と説明される。若い藩主の光尚は「まだ二十四歳の血気の殿様」と書かれる。どちらも悪役として役割は果たすが、説明の文で済まされていて、場面として立ってこない。一族を滅ぼした決定が、この二人の人柄の説明で片づいてしまうのは、構造の追及としては少し安易だ。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
制度や空気が人を動かす過程に関心がある人には、強くすすめたい。人物の内面に深く寄り添うタイプの小説を求める人には、冷たすぎると感じられるだろう。
- 殉死や体面といった、現代と違う価値観の中で人が動く話が好きな人
- 感情を抑えた記録のような文体の迫力を味わいたい人
- 同じ作家の別の作品も読みたい人。『高瀬舟』は短く、制度と個人の関係を別の角度から扱っている。また『山椒大夫』は同じ作家の歴史物として比べやすい
読む順番としては、まず短い『高瀬舟』で、鴎外が制度と個人の関係をどんな距離感で書くかをつかむのがいい。そのあとで本作に入ると、前半の冷たい筆致が意図されたものだと分かり、後半で一族が背景に退く違和感も、「欠点」として落ち着いて見極められる。逆にいきなり本作から入ると、討ち入りの場面で置いていかれた感覚だけが残りやすい。
初めて鴎外を読むなら、先に短い作品で文体に慣れてからこの作品に入るほうが安心だ。本文は約二万八千字で、長い人名列挙の節もあるため、前半の長十郎の場面と弥一右衛門の章だけでも、この作品の核は十分に味わえる。




