「労働者の居ない船」感想ネタバレ|語りが暴走する短編を辛口評価

結論:場面の暴力は一級、語り手の演説は余計。ただし忘れがたい一編

葉山嘉樹「労働者の居ない船」は、青空文庫の表示で約1万字の短編だ。ぼろ船の水夫室に広がるコレラと、病人を船首の空気室へ「勝手に」飛び込ませる場面だけで、読んだ人の記憶に残る。

一方で、語り手が何度も顔を出して階級闘争を説く。せっかくの場面が、説明で薄まる箇所が目立つ。劇薬のような描写と、粗い演説が同居した作品だ。

最小限のあらすじ

北海道から横浜へ向かう途中でコンパスが狂う老朽船・第三金時丸は、三池で石炭を積み、マニラへ向かう。帰りの航海で水夫の安田がコレラで死に、感染は水火夫室に広がる。船長は病人も死体もまとめて船首の空気室(フォアピーク)に入れろと命じる。やがて船には、船長と、数人の生き残りだけが残る。

船首の空気室に落とされる病人:独自の深掘りと、この小説の魅力

「彼女」と呼ばれる船は、なぜ酔っ払いなのか

冒頭は、金華山の燈台が右に見えるはずが左に見えるという、コンパス狂いの場面だ。メーツ(一等航海士)が「又、一時間損をしたな」と言ってコンパスを蹴飛ばすと、針が北東に戻る。この導入が上手い。船が傷んでいること、上の人間が気にも留めないこと、下の者が割を食うことが、数行でわかる。

語り手は船を「彼女」と呼び、「彼女は全く酔っ払いだった。」と言い切る。船を酔漢にたとえておいて、あとで病人が「酔っ払った」と呼ばれる展開につなぐ。この仕掛けで、酔っ払いと病人が同じ言葉で呼ばれる悪趣味な効果が出る。

コレラが「酔っ払い」と呼ばれ続ける構成の残酷さ

水夫が倒れたとき、仲間は暑さと酒のせいだと思い込む。ボースンは見習が死を告げても「死んだ程、俺も酔っ払って見てえや、放っとけ!」と返す。死に際の安田の腹では、コレラ菌が「百パーセントのアルコールよりも、「ききめ」のある」状態で暴れていると書かれる。

病名が遅れて判明するのは、情報を持つ者が誰もいないからだ。船に医者はおらず、体格検査は乗船時だけで、出帆後に調べる者もいない。感染症の怖さより、気づいてもらえない怖さが先に立つ。ここは短い分量で、よく計算されている。

フォアピークの描写が、この短編の核心

※ここから結末に触れます。

船長はコレラと知ると、高価な葉巻をふかして黴菌を殺せると信じながら、病人と死体をフォアピークへ入れさせる。そこは水火夫室の下の倉庫の、さらに下にある。空気は楕円形の穴から入るだけで、縄梯子で十五、六呎降りるしかない。病人を板で卸すことも、背負って降りることもできない。残る方法は「勝手に下りて貰う」ことだけになる。

この小説で一番強いのは、病人をどう降ろすかという実務の問題を、いつのまにか処刑の描写にすり替えている点だ。死体が「勝手に」飛び下り、次に火夫が、最後に水夫が叫ぶ。「生きてる間丈け、娑婆に置いて呉れ」。命令を下す船長は、サロンデッキから動かない。誰も手を下していないのに、人が殺されていく。責任の所在をぼかす構造そのものが、描かれている。

同じ作家の「セメント樽の中の手紙」が最後の手紙一枚で読者を殴ったのに対し、こちらは場面の積み重ねで殴る。短さの中で、描写の暴力をここまで通した例は多くない。

演説が小説を壊す:忖度なしの欠点・違和感

語り手の「待って呉れ!」が緊張を切る

冒頭近くで、語り手は読者に向かって弁解を始める。「そんな船に乗りさえしなければよかったんじゃないか」と言われるのが怖い、という趣旨だ。続いてブルジョアジーとプロレタリアートの戦いが、国家同士の戦争にたとえて語られる。主張自体は時代の空気として理解できる。問題は、物語が動き出す前に長々と置かれていることだ。

船の腐り具合は、コンパスを蹴る場面と、デッキを叩いたら穴があくという描写だけで十分に伝わっている。そこへ論を足すと、読者は自分で気づく余地を奪われる。創作する側から見れば、場面で見せた内容を、もう一度言葉で説明している。

比喩の過剰が、死の場面の重さを軽くする

安田が苦しむ場面には、茹でられた卵、撥ね疲れた鰌、火吹き達磨と、比喩が次々に重なる。一つ一つは確かに目に残る。だが連続すると、死にゆく人間の苦痛より、語り手の芸が前に出る。「茹でられた菜のように、萎びて、嵩が減って」といった一文も同様で、対象から目が逸れていく。

後半、フォアピークの描写では比喩が減り、事実を並べる文が増える。そちらのほうが、はるかに怖い。前半の飾りを削り、後半の乾いた文体に寄せていれば、完成度は一段上がったと思う。

結末が駆け足で、「労働者の居ない」が回収しきれていない

結末で、船は駆逐艦に発見される。船内にいたのは、船会社の社長が言った「半馬鹿、半狂人の船長」と、「木乃伊のような労働者」と、「多くの腐った屍」だった。題名が示す「労働者の居ない船」は、文字どおりには成立しない。残った高級海員が機関長として石炭を運び、船長が自ら舵を取る場面は、皮肉として面白い。だが「泰然として第三金時丸は動かなかった」の一行で、一気に終わる。

船が動かなかったことは、労働者なしでは資本は動かないという寓意として読める。ただ、その寓意を作品の中心に据えるには、士官たちが労働する場面が短すぎる。ここは分量を割いてよかった。アイデアの切れ味に、描写が追いついていない。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

プロレタリア文学の入口として、短くて刺激の強い作品を探している人に向く。反対に、物語の起伏や人物の内面を期待する人には向かない。個々の水夫の名前や性格はほとんど描かれない。安田と水夫見習が少し目立つ程度で、人物は集団として扱われる。

葉山嘉樹をこれから読むなら、短い順に「セメント樽の中の手紙」、本作、「淫売婦」と進むと、描写の強度を段階的に確かめられる。長編の「海に生くる人々」は、同じ船員生活を長い時間で描く別の試みだ。

初出は「解放」1926(大正15)年5月号。青空文庫には、今日の基準では不適切と受け取られかねない表現を含む旨の注記がある。読む前に頭の隅に置いておくとよい。