芥川「歯車」感想ネタバレ|歯車の正体と結末を辛口評価

結論:読み物としては息苦しいが、「壊れていく頭の内側」をここまで書いた小説は他にない

芥川龍之介「歯車」は、面白い小説ではない。事件らしい事件は義兄の轢死だけで、あとは語り手の「僕」がホテルと街と家をうろつき、目に入るものすべてを不吉な前兆に変えていく。それでも読み終えると、頭の中で何かが回り続ける。気軽に勧められる作品ではなく、芥川の晩年に付き合う覚悟のある人にだけ効く劇薬だ。『羅生門』や『蜘蛛の糸』の端正さを期待すると、まず裏切られる。

最小限のあらすじ

作家の「僕」は、知人の結婚披露式に出るため、避暑地から東京のホテルへ向かう。その途中から視野に半透明の歯車が現れ、行く先々でレエン・コオトを着た男を見かけるようになる。ホテルに着いた晩、姉の夫が鉄道で轢死したという電話が入る。「僕」は不眠と薬と幻覚に追い詰められながら、街と家を行き来し、その様子を六つの章で語っていく。

「歯車」の意味と恐怖の仕組みを読み解く:独自の深掘り

歯車の正体は何か――病気の症状として書かれている

歯車は、冒頭の第一章で早くも種明かしに近い扱いを受ける。「僕」自身が「絶えずまわっている半透明の歯車」と説明し、これまでにも何度か経験した現象で、数が増えて視野をふさぎ、しばらくすると消えて頭痛に変わる、と冷静に述べるのだ。眼科の医者が節煙を命じたという記述まで添えられている。

つまり歯車は、謎の象徴として最初に置かれるのではなく、症状として淡々と報告される。この順序が巧い。読者は「これは病気の話だ」と先に了解させられ、その後で、病気では説明のつかない出来事(轢死した義兄と同じ服装の男、死を告げる電話)が次々に混ざってくる。症状と偶然の境目が曖昧になるところが、この小説の怖さの本体だ。

レエン・コオトと「オオル・ライト」――前兆の連鎖が読者の頭にも回り出す

第一章は、短編としてそのまま独立して読める出来の良さがある。自動車で聞いた「レエン・コオトを着た幽霊」の噂、待合室や電車やホテルの長椅子に現れるレエン・コオトの男、そして給仕の会話から耳に残った「オオル・ライト」という英語。「何が一体オオル・ライトなのであろう?」と「僕」が繰り返すうち、電話が鳴る。

「やっと運命の僕に教えた『オオル・ライト』と云う言葉を了解しながら」という一文で、前兆の回収と死の知らせが同時に来る。伏線を張って回収する推理小説的な手つきではなく、意味のなかった断片が事後に意味を持ってしまう、という嫌な回収の仕方だ。創作者の目で見ると、このやり方は読者に「次の章でも何かが意味を持つはずだ」と思わせる力が強い。ただし、その期待が裏目に出る点は後で書く。

「神経だけ」を持つ語り手と、本から本へ逃げ込む文体

「僕」は第二章で、同人雑誌にこう書いたと明かす。「僕は芸術的良心を始め、どう云う良心も持っていない。僕の持っているのは神経だけである」。この一文が、以降の描写の方針そのものだ。街の看板、紙屑、犬の毛色、インクの色まで、神経が拾ったものはすべて語られる。

文体は短い文を畳みかけるのではなく、「のみならず」「しかし」「けれども」でつないで、疑いと打ち消しを繰り返す。事実と解釈をほとんど同じ温度で並べるので、どこまでが現実でどこからが妄想なのか、語り手本人にも読者にも判別できなくなる。この「語り手に判定を許さない」書き方は、同じ芥川でも『藪の中』のような技巧の見せ方とは別種の、切迫した手触りがある。

もう一つ目立つのは、救いを求めて本や絵に逃げ込む動きだ。ストリントベルグ、『暗夜行路』、メリメの書簡集、『罪と罰』と読み進めるが、どの本も安らぎを与えず、そのたびに針のような一節が刺さる。製本の綴じ違いで『罪と罰』の中に『カラマゾフの兄弟』の頁が現れる場面は、偶然とも運命の指とも読めて、この小説の設計を象徴している。

復讐の神という発想――罪の意識がいちばん露出する場面

第二章の終わりで、「僕」は書店で子供向けの『希臘神話』を開き、「一番偉いツォイスの神でも復讐の神にはかないません。」という一行に打ちのめされる。ここは、迫害されている恐怖の底に、自分は罰せられる側だという罪の意識があることが、最もはっきり出る箇所だ。第二章の別の場面で「僕」は「あらゆる罪悪を犯していることを信じていた」とも語る。具体的に何の罪なのかは書かれない。書かれないからこそ、読者が自分の心当たりを重ねてしまう。

ホテルの廊下を牢獄のようだと感じ、コック部屋の炎を見て「僕の堕ちた地獄」を思う場面では、作中で語り手自身が自作の『地獄変』の良秀を思い出す。地獄を描く側にいた作家が、地獄の中に自分を見ている。芥川の初期の作品を読んでから戻ると、この反転が効く。地獄変の感想ネタバレ|娘を焼く大殿と良秀、悪いのは誰か辛口評価の記事で、あの作品の芸術家の業については詳しく書いた。

「歯車」の分かりにくさと欠点:忖度なしの違和感

中盤以降は同じ型の繰り返しで、中だるみが目立つ

ホテルを出て歩く、何かを見つける、不吉な連想をする、部屋に戻る。第二章から第五章にかけて、この型が何度も繰り返される。一つ一つの連想は鋭いが、「黒と白」のウイスキー、翼のある商標、Mole と la mort の言葉遊びと、連想の種類が増えるだけで、物語は先へ進まない。

第三章の丸善の場面や第四章のカッフェの場面など、具体的な固有名詞が並ぶ部分は、当時の知識がなければ目が滑る。これは意図的な窒息感の演出とも言えるが、読者の注意力を消耗させて得られる効果としては、割に合わない箇所がある。短くして同じ恐怖を出す余地は、はっきりあった。

偶然の不吉さが過剰になり、怖さが飽和する

第一章のレエン・コオトは、幽霊の噂という前振りがあり、義兄の死という着地もあって、効果が高い。ところが後半は、運転手が古いレエン・コオトを着ている、黒犬が四度通る、鴉が四たび鳴く、鼠の死骸、自転車の男に義兄の顔を感じる、と前兆が増えすぎる。前兆が日常のあらゆる物に宿ると、どれも同じ重さになり、読者の側が慣れてしまう。

創作の技術で言えば、怖がらせたいなら前兆は絞るのが定石で、ここは逆を行っている。もちろん、増殖そのものが歯車の増殖と重なる意図は分かる。しかし意図が分かることと、読んでいる間に怖いことは別で、後半は理屈で納得する時間のほうが長くなる。

固有名詞と教養の壁――読者を選びすぎる

ダンテの地獄、タンタロス、オレステス、イカロス、ストリントベルグ、ボヴァリー、ラスコーリニコフと、西洋の文学・神話への参照が畳みかけられる。語り手が教養に逃げ込む人物だという設定なので必然ではあるが、注釈なしで追うと、何がどう効いているのかが分からないまま通過する箇所が多い。

この小説が長く読まれる以上、教養の壁を越えた先に本体があるのは確かだ。それでも、初読の読者には「分からない部分は流し読みでよい」という許可が要る。語りの視点が全編「僕」の主観に閉じているため、分からない箇所を外から補ってくれる人物もいない。親切さの面では、芥川の作品の中でもかなり厳しい部類に入る。

※ここから結末に触れます。

結末の「絞め殺してくれるものはないか」は告白か、それとも演出か

第六章で「僕」は妻子のいる家へ戻り、数日は穏やかに過ごす。しかし散歩の途中で歯車がまた現れ、二階で頭痛をこらえていると、銀色の翼が網膜に映る。そこへ妻が梯子段を駆け上がってきて、すぐに駆け下りる。理由を尋ねられた妻は「唯何だかお父さんが死んでしまいそうな気がしたものですから」と答える。

この直後に、語りは物語を離れて書き手の声になる。「僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない」と言い、「誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」と終わる。これを読んで胸を打たれない人はいないと思う。ただ、書き手の視点で冷静に言えば、この終わり方は小説の結末というより、小説の放棄を最も強い形で見せるやり方でもある。物語の因果を閉じず、事件の解決も与えず、作者の声を直接読者の前に置いて終わる。強烈な余韻と引き換えに、作品としての完結感はない。この一点が、評価を割る分かれ目だ。

もう一つ気になるのは、妻の一言の置き方だ。「僕」の恐怖を、第三者の直感が外側から裏づける形になっていて、これまで主観の内側に閉じていた物語に、最後の最後で他人の目が入る。妻が「死にそうな気がした」と言うことで、幻覚の話が一気に家族の現実になる。この一行の効果は大きいが、それまで妻子が背景に退いていたぶん、唐突さも残る。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

  • 芥川の初期の端正な短編を読んだ後で、晩年の作風を知りたい人
  • 幻覚や不眠など、神経が壊れていく感覚を言葉で追体験したい人
  • 物語の筋よりも、文体と語り手の執拗さそのものを味わえる人

逆に、筋の面白さや謎解きの快感を求める人、気分が沈んでいるときに読む本を探している人には向かない。まずは第一章だけ読んでみるのがよい。レエン・コオトの前兆と電話の場面までで、この小説の怖さの質はほぼ分かる。そこで続きが気になれば最後まで、重すぎると感じたら一度閉じて構わない。晩年の別の作品として芥川「河童」感想ネタバレ|結末の精神病院が怖い理由と併せて読むと、同じ時期の芥川が、寓話の形と私小説の形でそれぞれ何を書いたかの差が見えてくる。