工場細胞の感想ネタバレ|壁の音の結末と講義の長さを辛口評価

結論:読む理由は終盤の食堂と壁の音。そこへ至る前半は、覚悟して通り抜ける作品

約6万6千字の中編で、本当に忘れがたいのは最後の数十ページだ。小林多喜二「工場細胞」は、組織論の講義と経済の解説が物語を何度も止める。その代わり、五百人の職工が食堂で専務を追い詰める場面と、留置場の壁越しに仲間と交わす片仮名の会話は、多喜二の他作品でも屈指の出来だと思う。

「蟹工船」の勢いを期待して手に取ると、前半で肩透かしを食う。逆に、運動がどう「工場の中へ沈んで」いくのかを読みたい人には、ほかに代わりがない一作だ。

最小限のあらすじ

舞台は港町Y市の大製罐工場「H・S工場」。市民から「Yのフォード」と呼ばれる待遇のよさが自慢で、職工は日雇いの浜人足を見下している。仕上場の職工・森本は、組合の河田に導かれて、この工場の中に共産党の細胞をつくる役目を負う。ビラは鼻紙にされ、仲間は女工の一人から始めるしかない。やがて会社の内紛と大口の注文が重なり、森本たちは職工大会で専務に要求を突きつける。

初出は「改造」1930(昭和5)年4・5・6月号。青空文庫の底本は新日本文庫版で、章立ては二十二まで続く。

工場細胞の見どころを解剖する|食堂の大会と、壁を叩く結末の意味

最初の三ページで「ビラが無視される」現実を書く強さ

書き出しは、昼前の窓に男の顔が浮かび、失業労働者大会のビラが女工に手渡される場面だ。ところが、そのビラは昼食の話題にもならず、森本は階段や廊下に鼻紙として捨てられているのを見る。森本の失望はこう書かれる。「ビラの代りに、工場の中に虻か蜂の一匹でも迷いこんだ方が、それより大きな騒ぎになるかも知れないのだ。」

運動小説は、普通なら運動する側の熱から始まる。この小説は、無関心から始める。主人公が最初に出会う敵は専務ではなく、同じ作業服を着た同僚の「どうでもいい」という顔だ。ここで作品の課題が決まり、後半の食堂の逆転が効く仕掛けになっている。

「Yのフォード」を支える暮らしの描写が、思想の説明より雄弁

職工は帰りに学生服やワイシャツに着替えて「会社員」になり、女工は「お嬢さん」になる。会社は、それを許す自分の待遇を誇る。洗面所の仕切りの下から女工の腰を覗く男たちの場面や、罐に「ハシ、六」と書いて逢引きを約束する習慣まで、細部が具体的だ。

特に好きなのは、森本の父の花鉢だ。父は耳が遠く目も悪くなり、親方に嫌な顔をされながら、夜店で値切った鉢に水をやる。森本はそれを「奴隷根性のハケ口」と笑うが、工場に鉢を持ち込んだ職工の話では、花が一週間ともたない。「で、人間様はどういう事になるんだ?」と森本がふと冗談で返す。理屈を介さずに、搾取の体感だけが残る箇所だ。

会社側の「手口」を職場の人間関係で見せる巧さ

仕上場の熟練工と製罐部の職工は、何かあるたびに別々に固まって反目する。会社はその溝を放置し、勤勉な職工を社員にするという規定を、ごく少数にだけ使って効かせている。さらに佐伯という職工が、安部磯雄の講演を工場で開く話を持ち込み、専務が社民党から市会議員に出る噂まで絡む。会社が左翼の組合に走らせないよう、穏健な組合に加入させる動きも出てくる。

弾圧の暴力よりも、こうした「理解のある会社」という顔が敵として描かれる。森本が気づく対立は工場の外に敵がいるのではなく、同じ食堂で飯を食う者同士の間に引かれている。この構図が理解できると、前半の長い説明にも意味が見えてくる。

※ここから結末に触れます。

食堂の大会|「五百人の労働者はたった一つの呼吸しかしていなかった」

職工大会の場面で、森本は専務と工場長を三尺の距離に置いて話す。普段は専務の顔もまともに見られない隅で働いている男が、「金菱」(専務の地位を脅かす金融資本)の話を持ち出して、先に要求書を承認させるよう迫る。専務は「二三日中」と引き延ばそうとするが、「金菱は二三日待ってくれるわけはありません」と返され、期限を口にして、食堂は万歳に包まれる。

ここで評価したいのは、勝因が説教ではなく、相手の弱みを読む交渉の技術として書かれている点だ。カムチャツカの大口注文を前にストライキという言葉が専務に効く、と読者にも先に見せてある。五百人が「たった一つの呼吸」をしているという一文は、群衆の描写としてこの小説で最も手応えがあった。

壁越しの片仮名会話が、運動小説の結末として上等な理由

勝った夜、森本は集会前に自宅へ向かい、待ち構えていた刑事に連行される。留置場の独房で、壁の穴の向こうから「ダレダ?」と声が来る。河田だった。会話はほぼ片仮名で、聞き取れない文字が省かれたまま進む。「ヘコタレルナ」「ワカルハズノナイコトマデ……」と断片だけが届く。

読み手は森本と同じ耳になって、欠けた言葉を補うしかない。内容は、仲間に裏切りがあったこと、事件が共産党への弾圧であること。ここは情報の出し方が文体と完全に一致している。講義調の前半と違って、説明する余裕がない状況そのものが形式になっているからだ。

忖度なしの欠点・違和感|講義の長さ、鈴木の死の唐突さ、勝ちすぎる大会

工場細胞の会話が「講義」になる問題

第五章で、河田が日本の左翼運動の活発さと脆さを延々と語る。三・一五事件の犠牲、軍器工場での戦時ストの構想まで、一人で息継ぎなしに話し、石川が補足し、森本は聞くだけだ。第十一章では、笠原が合理化と銀行資本の関係を、同じ調子で解説する。

内容に価値はある。ただ、それは会話に見せかけた論文だ。創作する側から言えば、情報を渡す役の人物に、その情報で何かを失わせる場面が欠けている。河田の長広舌の間、誰も反論せず、誰も退屈せず、場面は動かない。一九二八年の弾圧を扱った「一九二八年三月十五日」が、事実を人の身体に直接ぶつけて重かったのと比べると、こちらは理解を読者に求めすぎている。

鈴木の自殺が、物語として回収されていない

鈴木は、会合で最後まで一言もしゃべらない無愛想な男として出る。後にお君の口から、酒に酔ってお君に絡む姿が語られるだけだ。結末で、留置場で特別な扱いを受けていた鈴木が首を吊ったと、一文で報告される。

河田の「裏切り」という言葉と並べれば、鈴木が内通者だったと読むのが自然だろう。ただし、作中ではそう断定されない。伏線は薄く、鈴木の内面は一度も描かれない。裏切り者の罪悪感を描けば小説の芯になったはずの場面が、報告のための一行で終わる。衝撃ではあるが、物語としては取りこぼしに見える。

専務の敗北が早すぎる|「Yのフォード」はそんなに脆いのか

専務は、職工が自分を支持してくれるという期待を裏切られ、気持ちから先に折れていく。金融資本に押される産業資本家の弱さや、カムチャツカの注文という事情が重なって、勝利の条件は整っている。それにしても、会社側の描写が心理の説明ばかりで、反撃の手がほとんどない。

工場長が「危い」と見て口を挟むのも、森本に言い返されて終わる。勝つまでの苦労は前半の無関心で描かれたが、勝つ瞬間の手触りは少し甘い。多喜二の別作品「不在地主」で感じた、勝利の早さの物足りなさと同じ癖が出ている。

お君との恋愛が、運動の緊張を薄める

森本とお君が最初に会う場面は愛嬌があるし、お君が女工の賃金を鋭く語る場面は印象に残る。しかし、洋品店の「張り込み」から逃げる緊迫の最中に、森本が「君ちゃんを本当に……愛してるからさ!」と言い出す流れは唐突だ。直後の沈黙で笑いに逃げず、気まずさを残した点は評価できる。それでもこの恋は、結末の別れの悲しみを作るために置かれた印象が強い。

もう一点、お芳が河田を想っているという話が、お君の口から途中でさらりと出る。結末でお芳が涙を拭う一行まで来て、読者はようやく彼女の存在を思い出す。女工たちが運動の担い手として育つ流れは作品の希望なのだから、森本以外の人物にも、もう一場面ずつ手前で出番を与えてほしかった。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

  • 「蟹工船」を読んで、主人公のいない集団の物語の次に、組織を作る側の物語を読みたい人。「蟹工船」の側で消費される罐詰が、こちらでは作る工場の側から見える(作中にも蟹工船向けの出荷の話が出る)
  • 職場にビラ一枚撒くことの難しさや、「待遇のいい職場」の人が連帯しにくい理由に関心がある人
  • 片仮名の壁越し会話のような、形式と内容が噛み合った場面を読みたい人

反対に、物語だけをテンポよく追いたい人には勧めにくい。第五章と第十一章は流し読みしてもよいが、食堂の大会と留置場の場面は飛ばさないでほしい。読み終えたら、同じ作家の「党生活者」に進むと、地下に潜った後の運動の姿が見える。最後の一文「春が近かった。――ザラメのような雪が、足元でサラッ、サラッとなった。」は、敗北の後でも季節が進むという意味で、静かに残る。