結論:仕掛けは完璧、ただし「子どもの一言」で終わる構成は都合がよすぎる
アンデルセンの「はだかの王さま」は、「バカには見えない布」というたった一つの設定で、人間の見栄を最後まで引っ張り切る童話の設計図だ。ここまで無駄のない仕掛けは、そうそうない。
一方で、物語を終わらせる役を「むじゃきな子ども」に丸投げしている点は、書き手の目で見るとかなり楽をしている。子どもは大人の事情を知らないから言えた、という説明で済ませてしまい、大人の側が自力で動く場面がない。読む価値は十分あるが、手放しで傑作とは呼べない。
※この記事は青空文庫にある大久保ゆう訳(英訳からの重訳)を読んで書いている。
最小限のあらすじ
新しい服にしか興味のない王さまのもとに、二人のさぎ師が来て、「自分にふさわしくない仕事をしている人と、バカな人には見えない布」を織ると言う。実際にははた織り機は空っぽだ。王さまは大臣や役人を確かめに行かせ、全員が「見える」と嘘をつき、王さまも見栄のために服を着て行進パレードに出る。
見えない布が生む連鎖:「はだかの王さま」の教訓は王さま批判だけではない
布が見えない人は「バカ」と決まる仕組みの巧さ
この話の設計で一番よくできているのは、布が見えないことを、本人の無能の証拠にしてしまう点だ。見えないと言えば自分がバカだと認めることになる。だから嘘をつく以外の選択肢が、最初から消えている。
年よりの大臣が空っぽの機の前で思う場面が象徴的だ。「『見えない』、と言わなければ誰も気づかないのですから。」。ここで彼は、騙されたのではなく、自分で黙ることを選んでいる。さぎ師は嘘を一つも強要していない。人々が勝手に保身で嘘を積み上げていくから、詐欺が成立する。
大臣、役人、王さまと、嘘をつく人が段階的に増える構成
嘘の連鎖は、正直者で通っている大臣、次に役人、最後に王さまと、立場が上がる順に重ねられる。しかも一人目の大臣は、頭がよいから布をきっと見られるだろうと王さまに見込まれて選ばれている。賢い人ほど、バカと思われる恐怖が強い、という皮肉が筋に埋め込まれている。
この繰り返しは童話らしい三段の型だが、同じ手順を二度、三度と見せるうちに、読者は王さまの番がどう来るかを先読みして楽しめる。短い話なのに、冗長に感じさせないのはこの配置のおかげだ。
さぎ師の細部描写が、嘘のリアリティを支えている
さぎ師は絹と金の糸を要求しては自分の物にし、パレード前夜には十六本ものロウソクをともして働くふりをする。人々は外からそれを見て、仕事が忙しいのだと信じ込む。ここでの「演出」が具体的だから、嘘の布が本当にあるように見えてくる。
服が完成する場面の「クモの巣と同じくらいかるくできあがっております」という売り文句も秀逸だ。何も身につけていないように感じるのは、むしろ上等な服の証だと先回りして言い訳を用意している。詐欺師の話術としては、この作品で一番笑える箇所だ。
※ここから結末に触れます。
「王さま、はだかだよ」の後も行進が続く結末の意味
パレードの最中、小さな子どもが「でも、王さま、はだかだよ。」と言う。その言葉は人づたいに広がり、ついに全員が「王さまははだかだぞ!」と叫ぶ。王さまは、みんなの言うことが正しいと分かっているのに、いまさら行進パレードをやめるわけにはいかないと考え、これまで以上にもったいぶって歩き続ける。めしつかいはありもしないすそを持って後に続く。
この結末は、ただ嘘がばれて恥をかく話では終わらせていない点が優れている。真実を知った後も、人は引き返せない。王さまが恐れていたのは、バカと思われることというより、「王さまが王さまでなくなる」ことだった。だから行進の続行は、愚かさというより、立場にしがみつく人間の最後の悪あがきとして読める。
忖度なしで言う、はだかの王さまの欠点・物足りなさ
無垢な子どもに結末を丸投げする、ご都合主義の構造
物語の転換点を担うのは、名前も背景もない「小さな子ども」の一言だけだ。ここまで大人たちの保身を精密に積み上げておいて、崩すのは「子どもは打算がない」という便利な設定一つ。書き手としては、ここが一番の楽をしたところに見える。
たとえば、嘘をついた誰か一人が、自分の意志で沈黙を破る展開もあり得たはずだ。そうすれば、保身と良心の葛藤という、この物語のテーマに沿った決着になる。子どもが言うなら、誰も傷つかない。そこが、話を教訓寓話の枠に閉じ込めてしまっている。
王さまが人物として薄く、さぎ師のほうが魅力的
冒頭の王さまは、服が好きすぎて会議室ではなく衣装部屋にいる、という笑える造形で登場する。だがそれ以降は、恐れる、見栄を張る、という役割に収まってしまい、内面の変化がほとんどない。結末で自分が間違っていたと分かってもなお行進を続けるのは皮肉として効いているが、そこに至るまでの王さまの揺れは、ほぼ描かれていない。
対して二人のさぎ師は、行動も話術も具体的で、見ていて面白い。結果として、騙される側より騙す側のほうが印象に残る。しかも二人は、捕まるどころか、報いを受ける描写すらなく物語から消える。詐欺が大成功のまま放置されるので、教訓としての座りが悪い。
「皇帝」ではなく王さまの訳で読むと、風刺の鋭さは少し薄まる
今回読んだのは、ひらがな中心の大久保ゆう訳で、語り口はやさしく、子どもに読み聞かせるのにちょうどよい。一方で「ぴっかぴかの新しい服」「ひゃぁ」のようなやわらかい言い回しは、権力者の虚栄を突く風刺の切れ味をやや和らげている。作品が童話として読まれる理由は分かるが、大人向けの毒を期待して読むと、肩すかしになるかもしれない。
ちなみに同じ青空文庫には別の訳もあるので、風刺の硬さを見たい人は読み比べるとよい。ただし、私は今回この別訳を読んでおらず、違いの中身までは断言しない。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
本文が数分で読み切れるため、童話をきちんと読み直したい人には最適だ。特に、「バカには見えない」という条件が人にどんな嘘をつかせるか、会議や職場で似た場面を見た経験がある人ほど、笑いながら苦い気持ちになれる。
- 短い話で、人間の見栄の構造を確かめたい人
- 文章の仕掛けや設定の作り方を学びたい、創作をする人
- 子どもへの読み聞かせ用に、定番の童話を選びたい人
逆に、人物の心理を深く掘り下げた物語や、悪役が報いを受ける爽快感を求める人には合わない。同じ作家の童話では、みにくいアヒルの子の救いの形や、マッチ売りの少女の残酷さと読み比べると、アンデルセンが風刺と悲劇でどう語り口を変えているかが見えてくる。




