結論:犯人当ての公正さは本物、だが前半の人間関係が重く、解決は「証拠なしの心理」頼みの長編
坂口安吾「不連続殺人事件」は、作者自身が賞金をかけて読者に犯人を当てさせにきた、挑戦状つきの本格探偵小説だ。仕掛けの芯は、安吾が「人間性の正確なデッサン」と呼ぶ心理の合理性にあり、解決篇を読み返すと、犯人が演技の中に落とした小さな不自然が確かに前の章に置かれている。ここは傑作と呼んでよい。
ただし、そこに行き着くまでの前半は、男女の因縁が絡み合う人物の紹介だけで相当な体力を食う。しかも解決は物的証拠を欠き、犯人の自白めいた態度に助けられて幕が下りる。論理のパズルを期待する人には満足と不満が同居し、人間の醜さを眺める小説として読める人には劇薬になる。
最小限のあらすじ
昭和二十二年の夏、詩人の歌川一馬は山中の酒造家の邸に、戦時中の疎開仲間だった文士や女優を一夏招く。一馬の手元には「お梶さまは誰に殺されたか。すべては一周忌に終るであろう。」という匿名の手紙があり、梶子の一周忌は八月九日に迫っていた。語り手の矢代寸兵は、顔ぶれの濃すぎる人間関係を危ぶみながら山荘へ入る。七月十七日の朝、流行作家の望月王仁が裸のまま胸を刺されて見つかり、連続する惨劇が始まる。
※ここから結末に触れます。
不連続殺人事件の犯人は誰か:「心理の足跡」と懸賞の公正さを解剖する
犯人はピカ一とあやか夫人、巨勢博士が示した「心理の足跡」とは
真犯人は、画家の土居光一(あだ名はピカ一)と、一馬の妻あやかの二人だ。表向きは犬猿の仲として描かれてきた二人が、実は共犯だったという組み立てで、読者の目は二人を最初から「容疑者の外」に置かされる。
決め手として探偵の巨勢博士が挙げるのが「心理の足跡」だ。内海明が殺された夜、土居に殴られ投げ飛ばされたあやかは、味方になる男たちが揃っている広間へ逃げ込まず、人のいない暗い戸外へ駆け出した。巨勢博士はこれを、人間の心理として「有りうべからざる奇怪事」だと言う。確かにあの場面を読み返すと、犯人が取りたくなる動きは広間への逃走であり、戸外へ走る必然性がない。ここが作品の最大の見せ場で、後から気づくと背筋が寒くなる。
その不自然に博士が気づくきっかけも良い。多門と加代子が毒殺された日、言葉の上では前の夜より敵意が激しいのに、土居は今度はあやかに飛びかからない。「前は殴ったのに、今回は殴らない」という差から、格闘の方が演技だったと逆算する。目立たない対比を手がかりにする発想は、謎解き小説として一級だ。
鈴一つで一馬を殺す準備をする、長期設計のうまさ
第一の殺人で、王仁の部屋の埃を拭いた跡の上に、あやかの部屋靴の鈴が一つだけ置かれる。巨勢博士はこれを、あやかに疑いをかけるための偽の手がかりではなく、最後に一馬を自殺に見せかけて殺すための仕込みだと読む。一馬にとってあやかは、疑いの外にある唯一の人間だ。その絶対の信頼を、第一の事件の時点で固めておく。
犯人が捜査側の裏をかくのではなく、被害者になる人物の心の動きを先に設計している。この逆向きの計画性が、本作を「犯人が誰か」だけの小説にしていない。殺人の順番も、珠緒、千草、内海と、見つかりそうになるたびに口を封じる形で、その場の危機への対応としても筋が通っている。
第一の殺人の冷たさと、語り手の「小気味がいい」という本音
王仁の死体は、一糸もまとわぬ裸で、心臓を短刀で一突きにされ、血はほとんど見えない。語り手は悲しみではなく、「小気味がいいと思う心が強い」と感じる。被害者が人を傷つけてきた男だけに、読者も同じ気持ちになり、犯人を探す動機がかえって弱まる。この設計が面白い。誰も本気で悼まない死から、事件が滑り出すからだ。
さらに朝食の席では、珠緒が秋子のダンヒルのライターと口紅の付いた吸いさしを証拠に、「犯人はわかっています」と言い放つ。手品の種明かしのような口ぶりで、「全巻の終り」と椅子に沈む。ここで早くも「分かりやすい容疑者」が差し出されるが、それが偽の手がかりかもしれないと疑わせる運びが丁寧で、犯人当ての読者を最初の数章から参加させる。
作者が自分で賞金をかけた犯人当てとしての誠実さ
巻末には「犯人さがし懸賞」の正解者発表が付いている。完全正解が四人出て、安吾は規定の賞金以外に「敗北料」を払うことにしたと書く。さらに「探偵小説は合理的でなければならぬ」と述べ、探偵小説のトリックは「消却法を相手にして、それによる限り必ず失敗するようにつくられたもの」だとも書く。
この宣言は、作品の実態とよく噛み合っている。登場人物の誰かが犯人であるという前提で消去していくと、アリバイのある人物が真っ先に消える。その「消える側」に犯人を置くのが本作の方法だ。読者を騙す条件を、作者が事前に公開しているわけで、その潔さは安吾らしい。同じ作者の「桜の森の満開の下」のように、答えを曖昧にして余韻を残す書き方とは真逆で、ここでは答えが一つに決まる。
不連続殺人事件の欠点:重すぎる前半と、物的証拠のない解決への違和感
前半の人間関係の説明が重い、読み進めにくさの正体
冒頭の第一章は、一馬、王仁、丹後弓彦、内海明、宇津木秋子、三宅木兵衛、人見小六、明石胡蝶、土居光一、あやかと、過去の男女関係の説明が延々と続く。語り手の口調は毒が効いていて読ませるが、人物に関する情報量が多すぎて、誰が誰の元妻で誰の愛人だったかを頭の中で整理するだけで疲れる。
この過剰な「人間関係の蜘蛛の巣」は、後で効いてくる伏線の隠し場所でもある。しかし、土居とあやかの過去の結びつきまで他の人物の紹介の中に混ぜるため、読者が最初に辿り着ける手がかりは多くない。再読すれば納得できても、初読では情報の海に溺れる人が出るだろう。人物紹介を手短にまとめる工夫がほしかった。
解決篇が長い独演になり、決定的な物的証拠がない
解決篇は、巨勢博士が一同を前に長く語り続ける形で進む。説得力はあるが、語られるのは「心理の足跡」という推理で、指紋や持ち物のような確かな証拠は出てこない。語り手自身も、博士の推理に説得されながら、犯人二人の無心な顔にも説得されると書き、最後の決め手は「ぬきさしならぬ物的証拠」が欠けていると認めている。
そこで博士が切り札にするのが、東京の待合の女将と女中を連れてくるという電報だ。あやかはそれを聞いて倒れ、死ぬ。ピカ一は「死ぬ必要はなかったのだ」と悔やむが、物語の勝敗を決めたのは、論理の追い詰めというより、犯人側の動揺だ。推理小説として読むなら、決着が心理戦に寄りすぎていて、あと一歩の説得力が足りない。
あやかの自殺と、ピカ一の最後の台詞の効かせ方
ピカ一は、あやかの遺骸の前で「つまり、オレは、オレとあやかとが犯人であったことを、今や、公然と認めてあげているのだ」と言う。この台詞は、犯人の矜持としてよく出来ているし、あやかの手に長く口づけする終わり方は、悪党なりの悲しさがある。
けれども、ここまで二人の関係の描写は、他人を欺く演技の面が強く、読者には二人の気持ちが分からない形で進んできた。最後の一場面だけで急に愛情を見せられても、感情の積み重ねが足りず、感動と呼ぶには唐突だ。感情の面では、安吾が同じ作者の「白痴」で見せたような、人間の濁った情愛の強さには届いていない。
警部たちの滑稽な造形が、緊張感を削る場面
捜査側には、「カングリ警部」、鼻の利く「八丁鼻」、考えすぎる「読ミスギ」というあだ名の刑事が揃う。探偵の巨勢博士も、五尺そこそこの小男で丸い愛嬌のある顔をした、二十三、四の小僧にしか見えない人物として登場する。この喜劇的な味付けは、探偵小説の約束事を茶化す安吾の遊び心として面白い。
ただ、殺人が次々に起きる場面でも軽い調子が抜けず、事件の怖さが薄まる箇所がある。笑いが、犯人の冷たさを引き立てる効果になっていればよいが、そこまで計算された配置には見えない。重い人間関係の説明のあとに、軽いあだ名の喜劇が続くので、読み心地が一定しない。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
一番向くのは、犯人を自分で推理してみたい読者だ。解決篇を読む前に、アリバイのある人物を疑う側に回り、「戸外へ逃げた不自然さ」に気づけるかを試すと、作者の仕掛けの巧さがよく分かる。逆に、証拠の積み上げで追い詰める本格を求める人には、解決の組み立てが物足りなく映る。
- 古い探偵小説の公正さや、作者が読者に挑戦する形式が好きな人
- 人物の毒や皮肉の効いた会話を楽しめる人
- 初読は人物の整理をあきらめ、大筋だけを追って、再読で伏線を確かめる余裕がある人
読む順番としては、短編の「桜の森の満開の下」や「白痴」で安吾の文体に慣れてから、本作に進む方が入りやすい。長い前半の人物紹介を乗り越えれば、犯人当てという遊びを、作者と同じ土俵で楽しめる作品だ。




