結論:着想は一級、運びは偶然頼み。文体の壁を越えられる人だけの劇薬
幸田露伴「風流仏」は、明治22年(1889年)に吉岡書籍店から出た初期作で、「恋を彫り込んだ木像が動く」という一点の発想だけなら今読んでも鮮やかだ。ただし、その一点にたどり着くまでの物語は、身分違いを解くために実父の出現という偶然を二度も借りる。しかも全編が息継ぎのない七五調まじりの長文で、読み通すこと自体が試験になる。
評価は「後半の三分の一は傑作の気配、前半と中盤は読書の苦行」。同じ作家の「五重塔」を先に読んで、露伴の文体に慣れていない人には勧めない。
最小限のあらすじ
仏師の珠運は、修業の旅の途中、木曾の須原の宿で花漬を売る娘お辰に出会う。お辰は叔父の七蔵に身を売られかけており、珠運は百両を投げ出して救い、二人は夫婦になる約束までする。ところがお辰は実の父だった岩沼子爵のもとに連れ去られ、珠運は残された家で彼女の木像を彫りはじめる。
※ここから結末に触れます。
「風流仏」の魅力を解剖する:木像が動く結末の意味と、珠運の恋の描き方
珠運はなぜお辰に惚れたのか:「恋を知らない男」の書き方
この作品でいちばん面白いのは、恋に落ちた当人が、それを恋と認めない場面の連なりだ。珠運は第六の中で「我今まで恋と云う事為たる覚なし」と言い切り、お辰を愛したのも修業のためではないが妻にしたいわけでもない、と自分に説明する。そして置き手紙を残して旅立つ。
その後が見事で、一里歩いては声が聞こえた気がして振り返り、二里歩いては袂を引かれた気がして振り返る。しまいには片足進んで片足戻るありさまになり、自分でも訳が分からなくなる。理屈で恋を否定する男の足が、理屈より先に引き返していく。ここは人物の心理を行動の滑稽さで見せており、露伴の観察の確かさがよく出ている。
像を彫るという行為が、恋の暴走そのものになっている
お辰を失った珠運は、彼女が暮らしていた荒屋を細工部屋にして、板に全身像を彫り始める。誰に頼まれたわけでもなく、金のためでもない。恋しさのあまりの仕事だ。花漬売の襤褸も令嬢の錦も着せず、梅桃桜菊の花を綴った衣をまとわせ、後光まで付ける。この像は「見たお辰」ではなく「珠運が望むお辰」であり、そこに像が動き出す結末の仕掛けが効いてくる。
お辰の身の上を聞いた翌日、珠運は彼女に贈るつもりで、一日がかりで櫛の棟に梅や桜や菊を浮き彫りにしている。恋の最初の動作も最後の動作も「彫る」であり、仏師という主人公の設定が、筋と主題を無理なくつないでいる。
吉兵衛の「影法師」説と、結末の答え
終盤、宿の主人吉兵衛は珠運に恋の正体を講釈する。人は相手ではなく、自分の心の燈が映した影法師に惚れているだけだ、という理屈だ。作中の言葉でも「皆々手製の影法師に惚るらしい」とある。珠運はこれを片腹痛いと突っぱねて小屋へ駆け戻るが、直後に新聞の「岩沼令嬢と業平侯爵」の記事を読んで疑いにのまれる。つまり彼は、吉兵衛の言う通りに影法師へ怒りをぶつけている。
そして像が声を出し、腕が首にからみつく。像が動いたのか、お辰が来たのか、語り手は「問ば拙く語らば遅し。玄の又玄摩訶不思議。」と投げて終わる。影法師論を、影法師が実体を得るという形でひっくり返した。説明を拒む潔さは、ここでは正解だと思う。
「如是相」から「如是果」へ:章題が作る因果の設計
各章の題は「如是相」「如是体」「如是性」「如是因」「如是作」「如是縁」「如是報」「如是力」「如是果」と並び、仏典の言い回しを借りている。冒頭に「発端 如是我聞」、末尾に「団円 諸法実相」を置く枠も付く。第四の「因」で珠運が眠れずに花漬の香に悩み、第六の「縁」で亀屋の亭主に婚礼を押しつけられ、第九の「果」で像が動く。章題と内容が実際に対応していて、仏師の話に仏典の枠を被せたのは洒落として成功している。
さらに各章に「上・中・下」の小見出しが付き、たとえば第一には「書けぬ所が美しさの第一義諦」という副題がある。お辰の登場場面で、美しさを細かく描かずに「書けぬ」と断ってしまう、芸の見せ方だ。こうした遊びが多い分、読者は楽しみ方を覚えれば先へ進める作りになっている。
忖度なしの欠点・違和感:「風流仏」が読みにくい理由と、物語の都合のよさ
身分の壁を、父親の長広舌と偶然で片づける
第七でお辰を抱き寄せるのは、岩沼子爵、つまり母の室香を置いて戦地へ向かった実の父である。ここで子爵は、別れてからの二十年近くを一つの長い台詞で語りきる。出世の経緯、洋行、養子入り、母の死を知った悔い、娘の探索。人物の背景を説明するだけの段落が、ほぼ丸ごと一人の口から流れ出る。
問題は長さよりも順序だ。この告白を受けてお辰は「令嬢」になり、珠運との恋が引き裂かれる。つまり物語を動かす最大の力が、登場から数ページで涙とともに現れた父親の善意で、これを事前に匂わせる伏線は、母が残した歌と短冊、守り袋ぐらいしかない。恋の障害が「子爵の善意」という誰も悪くない形で用意されるため、七蔵のような分かりやすい悪人がいた前半の緊張が、後半では急にゆるむ。
もう一つ気になるのは金の扱いだ。珠運は七蔵に百両を投げ出してお辰を救い、その後、田原は子爵の名で同じ百両と礼の百両、合わせて二百円を置いていく。珠運はそれを突き返して怒るが、この怒りの理由は「恋を金で買われた」という誇りであって、七蔵に払った百両と何が違うのかは作中で問われない。前半で自分がやったことを、後半で他人にやられて怒る構図は皮肉として使えたはずなのに、誰も気づかないまま流れてしまう。珠運が仏師の格を「ミチエルアンジロ」にまで引き上げて憤る場面も、笑いとして読めるぶん、彼の怒りの深さが読者に届きにくい。
お辰が自分の意志で動く場面が少ない
お辰は最後まで、動かされる人だ。七蔵に縛られ、珠運に救われ、田原栄作の偽の手紙にだまされて連れ去られ、子爵の屋敷に収まる。第九の下では、お辰の想いが長い独白として語られるが、それは珠運が像の前で思い描いた声であり、お辰本人がその場で選んだ言葉ではない。恋愛小説の片方がほぼ偶像のままなのだ。
「影法師」の主題から言えば、これは意図的とも読める。ただ、意図があれば欠点が欠点でなくなるわけではない。物語の後半、お辰が子爵に本心を伝える場面が一つでもあれば、像が動く最後の一撃はもっと重くなったはずだ。
終幕の団円は、風刺に逃げて問題を解いていない
肝心の問題、つまり仏師と子爵令嬢の身分差、侯爵との縁談がどうなったのかは、最後まで答えが出ない。二人は「雲の上に行」き、その後は、光輪をまとったお辰の化身を紳士や農夫や漁師がそれぞれ別の姿で拝んだという笑い話が続く。七蔵まで発心して田原とともに左右の御前立となる。
この団円の語り口は、神仏の御利益を茶化したような風刺で、それ自体は露伴らしい遊びだ。だが、恋の決着を現実の側で付けずに、神話の側へ全員を引き上げてしまっている。結末の不思議は欲しいが、その前に一度、現実の問題への答えを置いてほしかった。
文体の壁:一ページ続く長文は魅力か、読者への負担か
最大の障害は文体だ。最初の「発端」の一文からして、仏師の修業、旅立ち、洒落、掛詞を詰め込んだ長大な一文が連なる。その後も会話と地の文の境が曖昧で、誰が話しているのか分からなくなる箇所が多い。語り手が「此処言文一致家に頼みたし」と自分で音を上げる場面があるほどだ。
ここは好みの問題とは言い切れない。珠運の恋の迷いや、七蔵とのやり取りの勢いは、この文体だからこそ出ている。ただ、「風流仏」という作品全体を引っ張るだけの密度が、すべての段落に保たれているわけではない。第三の室香の身の上話の長さは、後の子爵の告白と二重になっていて、構成の無駄に見える。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
楽しめるのは、次のような人だ。
- 露伴の「五重塔」や「運命」で文体に慣れ、初期作がどうだったかを知りたい人
- 職人が何かを作ることと恋の狂いを結びつけた話が好きで、結末の曖昧さを許せる人
- 筋の自然さより、一場面ごとの勢いや言葉の遊びを味わえる人
筋の組み立てだけを比べるなら、一つの目的に職人が全力でぶつかる「五重塔」のほうが、読後の手応えは強い。「風流仏」は、手応えより着想の面白さと、言葉の洪水に身を任せる体験を買う作品だ。
反対に、現代の小説のように人物の心を段階的に追いたい人、身分差の恋が筋でどう決着するかを読みたい人には勧めにくい。
露伴の職人の物語としては、「五重塔」の十兵衛のほうが構成が引き締まっており、「運命」は物語より史論に寄った別の味わいがある。入口としては「五重塔」を先に、「風流仏」は露伴が何に挑んでいたかを確かめる二冊目か三冊目に回すのが、無理のない順番だと思う。












