結論:富士を貶し続けて、最後に笑いで着地する明るい私小説。ただし「再生」は少し出来すぎている
太宰治「富嶽百景」は、暗い印象で語られがちな作家が、珍しく肩の力を抜いて書いた随筆風の短編だ。富士山を「俗だ」と言い続ける語り手が、人に助けられるうちに、その山を認めざるをえなくなっていく。笑える場面が多く、太宰の入口として読みやすい。
一方で、見合いも結婚の話も都合よく好転し、「立ち直った」感じが軽く済まされる。一編の評価は、この明るさを素直に楽しめるかどうかで割れるだろう。
最小限のあらすじ
昭和十三年の初秋、「思ひをあらたにする覚悟」で旅に出た私は、御坂峠の天下茶屋に滞在中の井伏鱒二を訪ね、そのまま二階に居座って仕事を始める。毎日、真正面に富士を見ることになるが、あまりに絵葉書どおりの景色が気に入らない。甲府での見合い、茶店の人々や青年たちとの交流を通して、私の富士への見方が少しずつ変わっていく。
富嶽百景の魅力:「月見草」と富士の対比が効く理由
冒頭の「頂角」の数字が、語り手の性格を先に見せる
冒頭は、広重や文晁の描く富士の角度と、陸軍の実測図による角度の比較から始まる。実際の富士は「鈍角も鈍角、のろくさと拡がり」、決して高い山ではないと語り手は言う。物語が始まる前に、「憧れを一度疑ってから見る」この人物の癖が示される。のちに富士を認める場面が効いてくるのは、この疑い深さを最初に植えているからだ。
書き手の目で見ると、冒頭を数字で始めるのは大胆な選択である。感傷や情景で入れば、後の「富士讃歌」へ素直に流れてしまう。数字という冷たい素材から入ることで、読者は語り手と一緒に「本当に立派な山なのか」と疑う側に立たされ、結末の変化を自分の体験として受け取れる。
富士を「風呂屋のペンキ画」と呼ぶ悪態が、ほとんど愛情表現になっている
御坂峠の富士を「まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ」と恥ずかしがる語りは、悪態の形をした照れである。友人と二階の廊下で富士を「俗だねえ」と評しているところへ、破れた衣の男が上ってくる。語り手は「富士見西行」と持ち上げるが、その男は茶店の犬に吠えられて右往左往する。「富士も俗なら、法師も俗だ」という落ちは、気取りをやすやすと崩す、この作品らしい笑いだ。
バスの老婆と月見草:作品の芯になる一場面
バスの女車掌が「けふは富士がよく見えますね」と言うと、乗客は一斉に窓から首を出す。しかし語り手の隣の老婆は富士を見ず、崖のほうを見つめている。語り手は老婆に共鳴してみせようと崖を眺めるが、老婆がぽつりと「おや、月見草。」と指さす。語り手は、三七七八米の富士と「みぢんもゆるがず」対峙する黄金色の花を見て、こう結ぶ。「富士には、月見草がよく似合ふ。」
ここで巧いのは、語り手が主導権を握っていないことだ。「高尚な虚無」を見せようとしていた男が、老婆の一言で、自分の外にある小さな美に引き戻される。大きなものに小さなものが負けない、という構図が、一つの花で言い切られている。
この場面は、会話も景色も短い。それでも長く残るのは、語り手の「演技」が老婆の素朴さの前で空振りする、その温度差が見えるからだ。以後の語り手は、富士を貶す口調を保ちながらも、見るものを選ぶ目が少しずつ変わっていく。月見草は、その転換点を示す小さな目印として働いている。
富嶽百景の欠点・違和感:「立ち直りの物語」としての弱さ
※ここから結末に触れます。
結婚話の好転が、あまりにも順調すぎる
本作では、語り手の苦悩の中身が、ほとんど説明されない。冒頭の「意外の事実を打ち明けられ」た夜は、何があったのか明かされないまま過ぎる。そのため、後半の「再生」は何から立ち直ったのかが読者に伝わらない。さらに、実家からの援助がないと分かっても、先方の母堂が「結構でございます」と言い、先輩が世話を引き受け、話は一気にまとまる。障害が出た次の段落で、もう解決している。人の情に支えられる喜びは分かるが、物語としては緊張が持続しない。
「私」の自己演出が、読者に逃げ道を与えすぎる
「私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない」と語る場面は、自虐に見えて、直後に「藁一すぢの自負」を差し出す。この語り手は、貶したあとで自分を持ち上げる手つきが、何度も繰り返される。富士には「かなはない」と言いながら、遊女には「富士にたのまう」と責任を投げ、「おれの知つたことぢやない」と大股で去る。この身勝手さ自体は人間臭くて魅力だが、本人はそれを笑いで包んで済ませてしまう。遊女の一団の場面は、書き手の視点から言えば、いちばん掘り下げられるはずの素材で、扱いが軽い。
写真の落ちは巧いが、前半のほうがずっと面白い
結末近く、語り手は若い女性二人の写真を頼まれ、笑いをこらえながら「ふたりの姿をレンズから追放して」、ただ富士だけを撮る。「富士山、さやうなら、お世話になりました。パチリ。」という一文は、確かに別れの挨拶として洒落ている。ただ、この落ちは前半の悪態や月見草の場面ほどの密度がなく、構成としては、終盤に向けて少し緩んでいる。最後の一文の、甲府の安宿から見た富士を「酸漿に似てゐた」とする比喩も、愛嬌はあるが、それまでの流れを締めるには軽い。
創作の側から言えば、月見草の場面という頂点を中盤に置いてしまったことが、終盤の弱さの原因だろう。最大の見せ場の後に、見合いの決着、遊女の一団、写真と、小ぶりな挿話を重ねる並べ方になっており、読み進めるほど印象が薄まっていく。終わりに向けて密度を上げる構成にはなっていない。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
『人間失格』のような重い太宰に疲れた人、あるいは、太宰を一冊も読んだことがなくて、短くて明るい作品から入りたい人に向く。逆に、苦悩の核心や劇的な展開を求める人には物足りないだろう。女性の語りの技巧を見たいなら「女生徒」の感想、太宰の暗い側面を先に確認したいなら「人間失格」の感想も参考にしてほしい。
初出は『文体』昭和十四年二・三月号。短いので、冒頭の「頂角」の数字と、バスの月見草の場面の二か所だけでも読む価値がある。





