彼岸過迄感想ネタバレ|敬太郎は傍観者のまま終わる?辛口評価

結論:「須永の話」だけで一冊の価値がある。ただし主人公の敬太郎は、その価値に一度も触れられない

主人公が最後まで事件の中に入れない小説を、新聞で四か月近くも読ませる必要はあったのか。夏目漱石「彼岸過迄」は、その問いにほぼ半分だけ「あった」と答える作品だ。

後半の須永市蔵と千代子の衝突は、漱石の長編の中でも指折りの密度がある。一方で、前半の就職活動と探偵ごっこは、その密度に見合う助走になっていない。長編の入口としては薦めにくく、「それから」「こころ」を読んだ人が、漱石の心理描写をもう一段深く味わうための一冊だ。

最小限のあらすじ

大学を出たばかりの田川敬太郎は、就職が決まらず、下宿で「何か面白いこと」を待っている。同じ下宿の森本の放浪談に耳を傾け、友人の須永市蔵の叔父・田口に仕事を頼み込むうち、停留所で見かけた男の後をつける妙な役目を頼まれる。その尾行の先で、須永家の人々と、高等遊民を自称する松本の話を聞いて回ることになる。

※ここから結末に触れます。

「彼岸過迄」の構造を分解する:短編の連鎖という仕掛けは成功したのか

作者自身が語る「個々の短篇が一長篇になる」構想

連載前の緒言で、漱石は題名の由来を明かしている。元日から彼岸過ぎまで書く予定だから付けただけの「空しい標題」だという。そのうえで「個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら」新聞小説として面白く読まれはしないか、と構想を述べ、うまくいかなければ「離れるともつくとも片のつかない短篇が続くだけの事」だろうとまで予防線を張っている。

この予防線は、読後にかなり正確な予言に見える。実際に、森本の話、占い、尾行、千代子が語る幼い妹の死、須永の話、松本の話は、それぞれ独立した読み物として出来がよい。問題は、それらが「長篇」として相合したかどうかだ。私の見立てでは、半分は合い、半分は合っていない。

敬太郎という「受話器」は、読者の目として働くか

結末の章は、敬太郎の経歴を総括する。その書き出しは「敬太郎の冒険は物語に始まって物語に終った」。彼は森本、田口、松本、千代子、須永の口を通して世間を聞き、最後まで「その中に這入れなかった」と書かれる。漱石自身が、敬太郎を事件の外に立つ聞き役に設計したと明言しているわけだ。

この設計には利点がある。須永の秘密が、須永本人でも松本でもない第三者の耳を通ってこそ、読者には「他人の家の事情を聞かされる」距離で届く。ただし、その距離を担う人物が、前半であれだけ丁寧に描かれる必要があったかは疑わしい。朝湯で森本と話す導入の描写は生き生きしているが、敬太郎本人の内面はそれほど掘られない。読者が最後に残る感情は、須永への動揺であって、敬太郎への愛着ではない。

「須永の話」で市蔵が詰められる場面は、なぜ息苦しいほど痛いのか

後半の核心は、市蔵と千代子の衝突だ。千代子は、鎌倉から母を送ってきた翌朝、島田に髪を結って二階へ上がってくる。市蔵が「高木さんも」と口にした途端、彼女の眼に「今まで僕がいまだかつて彼女に見出した試しのない、一種の侮蔑」が輝く。

そこで千代子が言い放つのが、「あなたは卑怯です、徳義的に卑怯です。」という一言だ。市蔵は「ぐずとか煮え切らないとかいうべきところに、卑怯という言葉を使われては」と、言葉の使い方に反論する。感情の爆発のただ中で、この男が言葉の正確さにこだわる。そこが痛い。千代子の怒りの理由が嫉妬という一点に絞られているのに、市蔵は定義の問題へ逃げる。二人がすれ違う理由が、台詞の一往復の中に収まっている。

この場面の強さは、市蔵が「語り手」でもある点にもある。彼自身の一人称で、自分の気持ちが嫉妬と呼ばれても異存はないと認めかけては、それは千代子自身に重い責任があったからだと振り替える。書き手が、自分の卑怯さをごまかしながら語る声を作り込んでいる。

松本の話と結末の読み解き:種明かしは何を救い、何を壊したか

出生の秘密を明かす「叔父さん」は、残酷なのか誠実なのか

市蔵の嫌悪の根は、母とは血が繋がっていないという事実だった。それを打ち明ける場面で、松本は「どこの国に甥を憎む叔父があるかい」と言うが、市蔵は「あなたは不親切だ」と涙を流す。僻みの理由を聞かれても、松本は「あるよ。あるからあると云うんだよ」としか言えない。叔父として親切のつもりで口にした言葉が、市蔵の長年の孤独を直撃する。ここまでの流れは見事だ。

その後の展開に、少し引っかかる。事実が明かされると市蔵は「かえって安心して気が楽になりました。その代り何だか急に心細くなりました」と答える。この反応は理屈としては通るが、市蔵が最も恐れていたものの正体が、作中でここまであっさり処理されてよいのか。生母が産後に亡くなり、名前だけ「御弓」と伝わる。松本が知るのはそこまでで、市蔵が最後に問うた墓の場所も分からない。この「分からなさ」が、かえって市蔵の寂しさを誠実に描いている点は評価できる。

「彼らは離れるために合い、合うために離れる」という二人の診断

松本の話の冒頭で、市蔵と千代子のその後は「僕は知らない」と一言で切られる。つまり須永の話が読者に与えた衝撃は、そのまま宙に残る。松本は二人を、「離れるために合い、合うために離れる」と診断する。夫婦になっても不幸、ならなくても不満足。ここで物語は、結婚するかしないかという筋を捨て、二人の相性そのものを主題にする。

この診断は的確だが、同時に作者の責任放棄にも読める。須永の話で燃えた火が、二人の運命は成行きに任せるのが上策だという松本の見立てで収まってしまうからだ。「こころ」では、先生の遺書という形で一人の人間が決着を引き受けたが、本作では誰も引き受けない。その代わりに旅行中の市蔵から手紙が届く。「考えずに観るのが、今の僕には一番薬だと思います」。読者は、それで彼が治ったと思えるだろうか。私は、むしろ「治ったことにしておこう」という作者の優しさに聞こえた。

結末は「物足りなさ」を主題にしたのか、ただ疲れたのか

結末の章で、敬太郎は自分の経歴を振り返り、小川町の停留所で男を尾けたことさえ「冒険とも探検とも名づけようのない児戯」と評する。「そこが彼に物足らないところで、同時に彼の仕合せなところである」とも言う。これを、人は世間の劇の中に入れなくても生きていける、という優しい肯定と受け取る読み方はできる。

ただ、私はこの読み方に全面的には乗れない。この結びは、敬太郎に起きたはずの変化を、すべて「聞いただけ」で片づけてしまう。尾行は失敗し、報告も要領を得ず、田口にも「正直だ」と褒められるだけで終わる。就職は決まるが、その過程は本筋の外で処理される。主人公の物語が、ほかの人物の物語を並べる器に徹しすぎて、最後に一つも決着しない。構想としては筋が通っていても、読後の手応えは薄い。

忖度なしの欠点・違和感:前半の探偵ごっこと、読者を試す長さ

「停留所の男」を尾けた意味は、後半で回収されたのか

前半の山場は、田口の依頼で敬太郎が停留所で見た男女を追い、洋食店まで尾行する場面だ。田口はその報告を受けて、「名前も全く分りません」という答えにも「どうしたんだか余まり要領を得ませんね」と笑うだけで済ませる。そして、男の名は松本恒三で、田口が紹介状を書く。この導線自体は面白い。

だが、あの尾行が何の役に立ったのか、読み終えても判然としない。田口の意図は、敬太郎の人柄を試すことだったように見える。それならそれで構わないが、その試験の結果が、須永と千代子の物語に何をもたらしたのかが見えない。前半の謎が後半の謎に繋がる、いわゆる伏線の回収を期待して読むと、肩透かしを食う。回収されるのは「謎」ではなく、「人物の関係」だからだ。

占いの場面は面白いが、構成には効いていない

浅草から蔵前にかけて易者を探し、「文銭占ない」の婆さんに会う場面は、読み物として楽しい。紺と赤の絹糸を縒り合わせて「一本の糸が二筋の糸で、二筋の糸が一本の糸になる」と見せるあたりは、占いの小道具の使い方がうまい。

けれども、あの占いが物語全体の予告になっているかというと、そうは読めない。「自分のようなまた他人のような、長いようなまた短かいような、出るようなまた這入るようなもの」という謎めいた忠告は、読者の記憶に残るが、後で回収されるわけではない。短編として単独で読めば完成度が高く、長編の一部としては浮いている。「個々の短篇が長篇になる」という構想の、うまくいかなかった側の実例だと思う。

千代子の描き方は、読者の好みを選びすぎる

千代子は、ほかの女性登場人物と比べても、はっきりと意思を口にする。そこは魅力だが、須永の話では、市蔵の目を通して「ハイカラな有毒の材料」とまで書かれる。市蔵の主観が強すぎて、千代子本人の内面が、彼女自身の言葉でしか見えない。「なぜ嫉妬なさるんです」と言い切る場面は力があるが、そこで千代子が泣き出す理由を、市蔵は「世間にありふれた、俗っぽい婦人」と切り捨てる。語り手の偏見が正されないまま、物語が松本の話へ移る。

この偏りは、一人称語りの宿命とも言える。ただ、語りの偏りを批評する視点が、作中のどこにも置かれないのは気になる。松本の話が千代子をどう見ているかも、市蔵の見方を大きくは修正しない。男二人の語りが並ぶだけで、千代子が自分の側から語る機会は、最後まで与えられない。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

向いているのは、漱石の長編をすでに数冊読んでいて、心理描写の「掘り方」を比べたい人だ。須永の話は、そこだけ取り出して読んでも十分な密度がある。逆に、筋の面白さや、前半から後半へ向かう一本の緊張感を求める人には勧めない。

読む順番としては、まず三四郎で漱石の青春小説に慣れ、門で夫婦の沈黙を読み、そのうえで本作の須永の話に入ると、市蔵の語りの異様さがよく分かる。さらにこころと並べると、本作が「遺書」という決着の形を選ばなかった理由も見えてくる。

「彼岸過迄」は、傑作と呼ぶには散らかっていて、失敗作と呼ぶには須永の話が強すぎる。どちらの面も隠さずに読めば、漱石が連載小説の中で何を試し、何を諦めたかが、かなり具体的に見えてくる作品だ。