梶井「交尾」感想ネタバレ|猫と河鹿の二景、結びが弱い?辛口評価

結論:六千字の小品の中で、本物なのは河鹿が水を渡る数行だけ。そこだけで読む価値はある

梶井基次郎「交尾」は、全体で六千字ほどの、二つの場面だけでできた短い作品だ。前半は夜の猫、後半は昼の渓の河鹿で、題名どおり動物の求愛を見つめるだけの話である。

物語としての盛り上がりを求める人には、何も起きない作品に映るだろう。ただ、河鹿の雄が雌のもとへ泳いでいく場面は、梶井の観察眼が最も純度高く出た箇所だと思う。一方で、二つの場面の釣り合いと、結びの収まりの悪さは、手放しでは褒められない。

最小限のあらすじ

「その一」。病気で夜中に身体が火照る「私」は、眠れずに裏の物干し場へ出て、露路を行き交う猫を眺める。やがて二匹の白猫が抱き合って動かなくなり、「私」は見届けようとする。そこへ夜警が回ってくる。

「その二」。語りは河鹿を見に渓へ通った日の記憶に移る。桶に捕まえた河鹿は少しも自然な姿を見せず、渓へ行くしかないと悟る。ある日、瀬のきわで石になって待つ「私」の眼の下で、一匹の雄が雌を求めて水を渡っていく。

「交尾」の深掘り:二つの場面の対比と、河鹿が水を渡る場面の凄み

「その一」は猫より、語り手の置かれた場所が主役

書き出しは「私の立っているのは、半ば朽ちかけた、家の物干し場だ」。蝙蝠の飛ぶ星空から入り、露路、咳をする魚屋、葬儀自動車へと視線が下りてくる。肺病が「陰忍な戦い」になっている貧しい町の描写で、語り手自身も病人だと分かる。

猫の艶めかしさを描く文章は確かに巧いが、それ以上に効いているのは、この死の気配がある町の夜である。生の営みである交尾と、死の匂いが同じ画面に置かれる。しかも語り手は「私はキリストではない」と、ゲッセマネの連想をすぐ自分で打ち消す。大げさに構えず、照れを残して書く温度が、この前半を安っぽくしていない。

夜警の登場は、見る側を見るという二重構造をつくる

夜警が来ると、「私」は猫より夜警の反応のほうが面白くなる。人と一緒にものを見物している感じが起きる、と書かれているとおり、見ている者がさらに見られる位置に立つのだ。

夜警が杖を突くと猫は「二条の放射線」になって逃げ、夜警は「物干しの上の私には気づかないで」去っていく。見る者は見られていない。この非対称が、後半の「石になって河鹿を見る」伏線にもなっている。観察者は自分の存在を消さなければならない、という主題が前半から仕込まれている。

河鹿はなぜ「石」にならないと見えないのか:失敗談の効かせ方

後半で巧いのは、いきなり成功談を書かないことだ。桶に入れた河鹿は、「私」が湯へ行って戻るたびに「チャブン」と音を立てて隠れる。本を読んでいて身体を動かした瞬間にも跳び込み、「最も自然な状態で本を読んでいるところを見られてしまった」と、観察する側が笑われる形になる。

この失敗談があるから、後の「俺は石だぞ。俺は石だぞ。」と念じて動かない場面が効く。観察とは相手を捕まえることではなく、自分が風景になることだ、という理屈が、ユーモアを通して無理なく納得できる。

※ここから結末に触れます。

水を渡る雄の場面は、この作品の核であり頂点

雄は烈しく鳴いたあと、ふいに石を下りて水を渡る。「ギョ・ギョ・ギョ・ギョ」と鳴きながら泳ぐ姿を、語り手は母親へ甘え泣きしながら駆け寄る子供になぞらえる。擬人化は一歩間違えれば幼稚になるが、直前に石炭紀の両棲類の合唱という大きな時間を置いてあるので、小さな求愛が妙に壮烈に見える。

結びは「彼らの痴情の美しさは水を渡るときの可憐さに如かなかった」。交尾そのものより、そこへ向かう途中の必死さのほうが美しい、と言い切る。題名が「交尾」でありながら、最も美しいのは交尾ではないという逆転が、この作品の一番鋭い批評になっている。

「交尾」の欠点・違和感:構成の釣り合いと、結びの収まりの悪さ

前半と後半が、主題で結ばれているだけで、構造では結ばれていない

夜の猫と昼の河鹿は、どちらも求愛を見る話という点で並べられている。しかし前半は病と貧しい町の暗さ、後半は渓の明るさと、空気がほとんど違う。後半には病気の影が出てこず、語り手は健康な人のように渓を歩く。同じ「私」なのか、時期が違うのか、読者には補助線が与えられていない。

二つの断章として読めばよいのだが、題名が一つである以上、片方がもう片方に響く仕掛けがほしかった。前半の死の気配が後半で反転する、といった形にすれば、作品はもっと締まったはずだ。

猫の「痴態の幻想」が、描写の割に前に進まない

猫を見て男女の痴態を幻想し、「涯しのない快楽を私は抽き出すことが出来る」と書く箇所は、語り手の病んだ内面を見せる唯一の踏み込みだ。ところが、その先が語られない。幻想は一行で終わり、すぐ夜警の描写に移ってしまう。

前半は外の観察に寄りすぎて、せっかく開いた内面の扉を閉じている。同じ梶井の「冬の蠅」や「桜の樹の下には」のように、観察が語り手の妄想へ踏み込んでいく強さは、ここにはない。

河鹿の後半の最後が、余韻というより尻切れに近い

最後の一行は、「世にも美しいものを見た気持で、しばらく私は瀬を揺がす河鹿の声のなかに没していた」。美しい場面で終えること自体は問題ない。ただ、前半の最後に置かれた、夜警が気づかずに去るという皮肉な着地に比べると、後半の終わりは感想の言い切りで閉じてしまい、結びが弱い。

語り手が「没していた」で終わると、物干し場の病人はどこへ行ったのか、という問いが宙に浮いたままになる。読後に残るのは余韻より、断章が一つ終わった感覚だ。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

筋よりも「見る」ことそのものの手触りを楽しめる人に向く。短い作品なので、青空文庫で三十分もかからず読める。

梶井を初めて読むなら、まず梶井基次郎「檸檬」のほうが入口として分かりやすい。観察の目と病の影を同時に味わいたい人は、梶井「冬の蠅」を先に読んでから戻ると、この作品の明るい後半が際立つ。静かな日常描写が好きなら「城のある町にて」も合う。

逆に、筋の起伏や人物の葛藤を求める人には、徹底して向かない。「交尾」は、河鹿が水を渡る数行のためだけに読む作品だ。その数行は、読む価値がある。