漱石「それから」感想ネタバレ|代助の告白と赤い結末を辛口評価

結論:告白の場面は漱石の中でも屈指。ただし代助の「自然」という言い訳は最後まで甘い

働かない男が、友人の妻に惚れた。あらすじを一行で言えてしまう小説なのに、読み終えると妙に重いものが残る。『それから』は、その重さを山場の一点に集めきった長編で、友人の妻に気持ちを打ち明ける場面と、あの赤一色の結末のために読む価値がある。

一方で、全体の八割あたりまで山が来ないため、前半は代助という男の「いい気な暮らし」を延々と眺めさせられる。しかも主人公の理屈は、読み終えても完全には信用できない。名作だが、人を選ぶ名作だ。

最小限のあらすじ

代助は、実業家の父に生活費を出してもらい、書生の門野と婆さんと暮らす、働かない男。そこへ三年ぶりに、かつての友人・平岡が上京してくる。平岡の妻は、亡くなった親友の妹・三千代で、代助にとっては過去のある相手だった。父は地方の大地主の娘との縁談を持ち込み、代助は自分の気持ちと向き合わざるを得なくなる。

『それから』の魅力:代助の「高等遊民」ぶりと告白場面を分析する

冒頭の椿と心臓で、代助の人物がほぼ決まる

書き出しがうまい。代助は枕元に落ちた八重の椿を見つけ、「昨夕床の中で慥かに此花の落ちる音を聞いた」と思う。さらに寝たまま胸に手を当て、自分の鼓動を確かめるのが近頃の癖になっている。鼓動を「死に誘ふ警鐘」のようだと考えながら、彼は「血潮によつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、生きたがる男である」と書かれる。

死を意識しているのに生に執着している、この矛盾が代助という人物の核になる。続く場面では、風呂場で歯を磨き、鏡の前で頬を撫でる姿が、お白粉をつける女の手つきに喩えられる。肉体への誇りと、神経質な知性が同居している。ここまでの数ページで、「この男は働かないのではなく、働かなくても自分を肯定できてしまう人間だ」と読者に分からせる。人物の導入としては無駄がない。

さらに書生の門野との掛け合いが効いている。門野は何を言われても「へえ、左様なもんですかな」で押し通す男で、代助はそれを「刺激が要らなくつて好い」と思って置いている。自分の神経を「細緻な思索力と、鋭敏な感応性に対して払ふ租税」と呼ぶ代助の自意識が、門野という鈍い鏡に映って、おかしみと嫌みの両方を放つ。この距離感は漱石の喜劇の腕が出ている。

百合の花と「三巴」の比喩が、告白の説得力を作っている

第十四章の告白は、台詞よりも道具立てが仕事をしている。雨の日に代助は白百合を沢山買い、三千代を呼ぶ。「兄さんと貴方と清水町にゐた時分の事を思ひ出さうと思つて、成るべく沢山買つて来ました」と言う。二人は雨の音と花の香で「世間から切り離され」、同じ家にいる門野や婆さんからも切り離される。密室を作る手際が、とにかく手堅い。

過去の説明も秀逸だ。三千代の兄、代助、三千代の三人は「巴の如くに回転しつゝ」近づき、「遂に三巴が一所に寄つて、丸い円にならうとする少し前の所で、忽然其一つが欠けた」。兄の死で均衡が崩れたという、一文の比喩で五年分の関係を処理している。説明の長さを抑えながら、読者に「二人は互いに好きだったが、口に出さなかった」ことを納得させる、うまい圧縮だ。

肝心の言葉は驚くほど飾りがない。「僕の存在には貴方が必要だ。何うしても必要だ。」地の文が指摘するとおり、「普通の愛人の用ひる様な甘い文彩」を含まない。官能に訴えず、三千代の心に直接届く、という説明が付く。恋愛の告白を甘くしないことで、かえって重みが出る。ここが本作最大の成功だと思う。

※ここから結末に触れます。

「何故棄てゝ仕舞つたんです」が、告白を告白で終わらせない

この場面が良いのは、告白される側が受け身で終わらないところだ。三千代は泣きながら「余りだわ」と言い、やがて「打ち明けて下さらなくつても可いから、何故」と詰まり、思い切って「何故棄てゝ仕舞つたんです」と問う。代助は「三四年前に、貴方に左様打ち明けなければならなかつたのです」と憮然として口を閉じる。

代助の「遅すぎた告白」という自覚がここで読者に渡される。つまりこの場面は、愛の成就ではなく、取り返しのつかない遅れの確認なのだ。代助が「僕は貴方に何所迄も復讐して貰ひたいのです」と言い出すのも、遅れに対する罰を自分から求める態度に見える。三千代が「復讐」と聞いて怯えるのに対し、代助は耳を貸さない。ここで二人のずれが見える。それでも最後に三千代が口にする「仕様がない。覚悟を極めませう」で、物語は一気に引き返せなくなる。短い一言で、後戻り不能の線を引く設計は見事だ。

結末の「世の中が真赤になつた」は、解決ではなく発熱として読む

結末では、兄の誠吾が平岡の手紙を持って訪ねてくる。手紙は二尺余りも続くほど長く、父は「もう生涯代助には逢はない」と言っているという。代助は「本当です」とだけ答え、兄に「貴様は馬鹿だ」と言われても、顔を上げない。

兄が帰ると、代助は急に立ち上がり、「門野さん。僕は一寸職業を探して来る」と言って日盛りの表へ飛び出す。電車に乗ると、赤い郵便筒、赤い蝙蝠傘、赤い風船玉と、目に入る赤が次々と頭に飛び込んでくる。「仕舞には世の中が真赤になつた。」そして代助は、頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心して終わる。

ここは「就職すれば解決」という話にしないことが重要で、働くという現実が代助にはもう熱病の幻覚としてしか見えない、と読める。親に金を絶たれ、働く覚悟もなかった男に、世界の色が一色しか見えなくなる。結末の意味を一言でいえば、社会へ出ることの恐怖と焦りが視覚化された場面だ。物語を閉じず、燃えている途中で切る終わり方は、今読んでもかっこいい。

『それから』の欠点:代助の言い訳と山場の遅さを忖度なしで指摘する

告白が全体の約八割。前半の「代助を眺める時間」が長すぎる

青空文庫版の全体はおよそ17万6千字。告白の章はその八割あたりに来る。それまでの代助は、父や兄夫婦との会話、門野との雑談、友人の寺尾の無心などで、「働かず、議論と趣味で暮らす男」を何度も描かれる。人物の厚みを出す効果はあるが、同じ種類の場面を繰り返している印象は拭えない。

新聞連載で、日々読者を引っ張る必要があったのは分かる。ただ、いま一冊として通読すると、告白に至るまでの動機づけは「過去の三人」の説明が来るまで保留され続け、読者は代助が何に迷っているのかを長く知らされない。伏線を張るというより、情報を後ろへ溜めている感じに近い。山場が良いだけに、手前の道のりの重さが惜しい。

「自然」という大義名分が、代助にとって都合が良すぎる

代助は告白の場面で、「僕はさう生れて来た人間なのだから、罪を犯す方が、僕には自然なのです」と語る。自分の行為を「自然」に引き寄せて肯定する理屈だ。しかし冷静に見ると、この理屈は、三年前に自分が打ち明けなかったことへの責任を、ほとんど引き受けていない。

三千代に「復讐して貰ひたい」と言うのも、罰を受ける側に回って被害者の位置を取る態度に見える。自分を責める言葉を並べるほど、責任の矛先がぼやける。作者が批判的に書いているのか、肯定しているのかが曖昧で、読者としては代助に乗りきれない。ここは好みの問題にとどまらず、語りの距離感が揺れているという構成上の欠点だと考える。

三千代が「応じる人」に寄りすぎ、平岡は手紙の中にしかいない

三千代の言動は、泣く、問いかける、受け入れる、のほぼ三つに収まる。「私だつて、貴方が左様云つて下さらなければ、生きてゐられなくなつたかも知れませんわ」という言葉は重いが、彼女自身の欲望や計画はほとんど語られない。覚悟を決める台詞も短く、決断が代助の語りに包まれてしまう。

平岡も同様で、終盤では本人が出ず、兄の持ってきた「手紙」という文書の形でしか現れない。夫として何を感じ、どう動いたかは、代助の視点を通した断片しか見えない。三角関係を扱いながら、三人のうち二人を、主人公の内面の背景に押し込んでいる。これが物語を代助の独演会に近づけている。

父との対決が肩すかし。「勝負」の相手が最後まで像を結ばない

代助は告白後に「父と決戦すべき準備」を整え、凡てと戦う覚悟をしたと考える。ところが現実には、父は会う日を延ばし続け、会えた場面でも政略的な結婚を説き、老いた顔を見せるだけだ。ここで代助が父に同情してしまう描写は人間的で悪くない。しかし、その結果、予告された「決戦」は起きず、結末は兄が使者として来て絶縁を告げる、という間接的な形で片づく。

肩すかしを意図した構成と見ることはできる。だが、父と兄の「世間」を最後まで抽象的な圧力として置いたために、代助が何と戦っているのかが実感として薄い。ラストの熱病じみた赤が効くのは確かだが、その手前の対立が輪郭を持っていれば、もう一段強い終わりになったはずだ。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

向いているのは、筋よりも人物の頭の中を読むのが好きな人だ。代助の自意識が、鏡の前や雨の日の部屋でどう動くかを追うこと自体が面白い人には、前半の長さも楽しみに変わる。また、告白の場面や結末の一点を目当てに、近代小説の「遅れた愛」を味わいたい人にも勧められる。

逆に、事件が次々起きる小説を求める人、主人公に共感できないと読み進められない人には、最初の数章がきついだろう。その場合は、同じ漱石の青春小説である『三四郎』の感想から入り、美禰子と三四郎のすれ違いを経てから戻ると、代助の「遅れ」がより分かりやすい。遅れた告白と後悔という主題は、『こころ』の先生の遺書と並べても考えやすい。

読むときは、告白の章だけを抜き読みするのではなく、冒頭の椿と心臓の場面から通して読むことをすすめる。最初に置かれた「生きたがる男」が、最後の赤い電車に行き着く道筋が、そのまま作品の背骨だからだ。

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