吾輩は猫である感想ネタバレ|猫の溺死と結末を辛口評価

結論:冒頭の一行は文学史級、だが全編を通読する価値があるかは別問題

30万字を超える長編を読み通して、心に残るのは最後の数頁だけだった。これが私の正直な感想である。「吾輩は猫である」は、語りの発明としては間違いなく傑作だ。しかし小説としての推進力は弱く、途中の何章かは、笑いの質が高いまま同じ場所を回り続けている。

楽しめるのは、筋より語り口を味わえる人、会話の掛け合いが好きな人だ。物語の起伏を求める人には、中盤がかなり長く感じられるはずである。

「ホトトギス」に1905年(明治38年)1月から1906年(明治39年)8月まで断続的に連載された作品で、全11章。構成の緩さは、この連載形式の産物でもある。

最小限のあらすじ

生まれてすぐ捨てられた名前のない猫が、ある教師の家に潜り込み、そのまま居着く。胃弱で何をやっても物にならない主人、そこへ出入りする美学者の迷亭、珠を磨く寒月、新体詩の東風といった面々を、猫は縁側や台所から観察し、批評し続ける。大きな事件は起きず、猫の目に映る人間の滑稽さが一章ごとに積み重なっていく。

「吾輩は猫である」の深掘り:なぜ猫の視点が人間を笑えるのか

冒頭「名前はまだ無い」が仕掛けた語りの装置

「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」という出だしは有名すぎて、かえって中身が読まれていない。冒頭の続きで、猫は書生を「人間中で一番獰悪な種族」と紹介し、人間の顔を「つるつるしてまるで薬缶だ」と評する。ここで重要なのは、猫が人間を悪く言っているのではなく、人間を知らない者の目で描写していることだ。煙草を吸う人間は「穴の中から時々ぷうぷうと煙を吹く」奇妙な生き物になる。

この装置が優れているのは、風刺と描写を同時に済ませる点にある。作者が人間を批判すれば説教になるところを、猫が見たままを語ることで笑いに変わる。猫は猫で偉そうなのも味で、「人間は我儘なものだ」と断言しながら、自分の毛色には妙にこだわる。観察者もまた滑稽である、という二重構造が全編を支えている。

水彩画とアンドレア・デル・サルト:猫が主人を失笑する場面

第1章の水彩画の挿話は、この小説の完成度を象徴している。主人は友人の美学者に「写生をしたら」と言われ、その助言をそのまま信じて、昼寝中の猫を写生し始める。猫は主人を見て「覚えず失笑するのを禁じ得なかった」。出来上がる絵は「ただ一種の色であるというよりほかに評し方のない色」で、眼さえない。

面白いのは、猫が失笑しながらも、しばらく動かずに耐えてやる点だ。小便が催して我慢の限界が来るまで、猫は主人の熱心さに「感服せざるを得ない」と思っている。軽蔑と情が同居しているから、主人は単なる嘲笑の的にならない。この距離感が、続く章でも人物を憎めない存在にしている。

迷亭と寒月の法螺話が連鎖する「去年の暮」の構成

中盤の読みどころは、迷亭が語る「首懸の松」の話と、それに続く寒月の吾妻橋の話だ。迷亭は、首を縊りたくなる松の下で、東風が訪ねてくるかもしれないと考えていったん家に戻り、引き返したら「もう誰か来て先へぶら下がっている」と落とす。寒月は、橋の下から呼ぶ声に応じて飛び込んだつもりが、「橋の真中へ飛び下りた」だけだったと語る。

どちらも落ちが「間に合わなかった」「勘違いだった」という脱力で、死ぬ話を笑い話に反転させている。さらに話の合間に、主人が「僕にもある」と負けず嫌いを見せ、聞き手の態度が作る間まで描く。会話だけで人物の格を見せる技術は、ここが最高だと私は思う。

トチメンボーの挿話も同じ系統だ。迷亭が存在しない料理を注文し、材料を問われたボーイが「日本派の俳人」だと認めて落ちになる。聞いた主人が、自分だけが担がれたのではないと知って急に愉快になる反応まで含めて、ひとつの小品として完結している。

※ここから結末に触れます。

結末の意味:なぜ猫はビールを飲んで甕に落ちるのか

最終章、客が帰って座敷が静まったあと、語りの調子が変わる。「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。」と猫は総括し、主人は早晩胃病で死ぬ、秋の木の葉は大概落ち尽した、と厭世に傾く。そこで猫は、客の残したコップのビールに舌をつける。「どうせいつ死ぬか知れぬ命だ。」という自棄が動機である。

酔った猫は歩き回り、甕に落ちる。縁まで四寸余あり、爪がかからないと悟った猫は、もがくのをやめる。「太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。」で小説は閉じる。ビールは、三平が真っ赤になって飲んでいた酒であり、猫がそれを真似する形で、人間の愚行をなぞって死ぬ。人間を笑ってきた観察者が、最後は人間と同じ好奇心と酔いで滅びるという皮肉が、この結末の核だと私は読む。

水から出ようとあがく猫が、出られないと悟って力を抜く過程は、論理の積み重ねとして説得力がある。ここだけは笑いが消え、文章の密度も上がる。長い冗談の末に、これだけ冷えた終わり方を用意した点を、私は高く評価する。

「吾輩は猫である」の忖度なしの欠点・違和感:中だるみと猫の視点の無理

筋がないことの代償:連載が伸びたことによる中だるみ

この作品には、物語を前へ進める軸がほとんどない。章ごとに来客が入れ替わり、談義と法螺話が続くだけなので、各章はどこから読み始めても成立する代わりに、どこで止めても支障がない。創作者の目で見ると、これは連載の都合で作者が書き足せる構造にしたことの帰結で、全体の設計としては甘い。

最終章の三平の婚約と写真の場面は、猫の死の直前に置かれた最後の笑いとして機能するが、物語の収束というより、また一人客が来て騒いで帰るという、それまでの章と同じ型の反復である。笑いの水準が高い分、読者は中盤で「まだ続くのか」という疲労を覚える。会話劇としては良質でも、30万字を支える推進力は別物である。

猫が知りすぎている:語り手の便宜的な万能性

猫の視点は魅力だが、制約がゆるすぎる。猫は「波斯産の猫のごとく」自己紹介し、画家の逸話や英文学、俳句の事情まで人間並みに語る。猫の観察という建前で始めたのだから、人間の知識の限界が猫の限界になるはずなのに、実際は作者の知識がそのまま猫の口を借りて出てくる。

終盤で猫は「カーテル・ムルと云う見ず知らずの同族」の話を持ち出すが、これも猫の知識というより作者の趣向である。語りの縛りを自分で破っていくため、冒頭で獲得した「人間を知らない者の目」という新鮮さは、後半に行くほど薄れていく。

結末の温度差:笑いの小説が最後に厭世へ傾く唐突さ

結末は見事だと書いたが、そこへ至る道筋の弱さは認めなければならない。「諸先生の説に従えば人間の運命は自殺に帰する」という猫の述懐は、前の章までの猫が持っていなかった種類の暗さである。客の会話では笑い続けていた語り手が、座敷が静まった途端に、突然世を儚む。落差を狙った構成と好意的に読むことはできるが、そこまでの章で猫の内面に厭世の種が丁寧に蒔かれていたとは言いがたい。

結末の迫力は、積み重ねによる必然というより、作者が最後に切り替えた力技に近い。ここは評価が割れて当然の箇所だと思う。

第1章と最終章の落差が示す、書き継がれた小説の限界

この小説は、最初は一回の読み切りとして発表され、評判がよかったために続きが書かれたと伝えられている。第1章だけが妙に完結した形をしているのは、そのためだと考えると納得がいく。猫の誕生から主人の家に居着くまで、水彩画の挿話で主人の人物像を示し、最後は猫が主人を醒めた目で眺めて終わる。この一章だけで、短編として十分に閉じているのだ。

問題は、そこから先の章が、第1章の成功を薄めて繰り返す性質を持つことだ。新しい客が来て、新しい法螺話が語られ、主人が少し負ける。型は同じで、人物の関係は大きく動かない。書き手の立場から言えば、読み切りの完成度が高すぎたせいで、続編は「何を足せば前より面白くなるか」ではなく「同じ面白さをどう別の客で再生産するか」に傾いたように見える。最終章で突然作者が幕を引くのも、この反復を終わらせる手段が、猫の死以外に残っていなかったからではないか。そう疑わせる構造である。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

  • 筋よりも、会話の間や語りの調子を味わうのが好きな人
  • 迷亭や寒月のような、法螺話や屁理屈を言い合う場面で笑える人
  • 漱石の初期作を、後期の重い作品と対比して読みたい人

逆に、起承転結のある物語や、人物の成長を求める人には向かない。通読に自信がなければ、第1章(冒頭から水彩画の挿話まで)と最終章だけを読んでも、この小説の最良の部分はほぼ手に入る。中盤の迷亭と寒月の話は、そこから好みに応じて足せばよい。

読む順番を具体的に案内するなら、まず第1章を読み、水彩画の挿話で笑えるかどうかを試金石にしてほしい。ここで笑えない人は、以降の章でも同じ種類の笑いが続くので、無理に進まなくてよい。笑えた人は、迷亭と寒月の法螺話が並ぶ章へ進み、最後に最終章へ飛ぶのが効率的だ。中間の章を飛ばしても、猫の死の意味はちゃんと伝わる。

読み終えたあとに残る問いは、猫はなぜ最後まで名前を持たなかったのか、である。名前のない観察者が、人間の真似をして死ぬ。この一点を軸に読み返すと、笑いの小説の裏側にある空虚さが見えてくる。

同じ漱石で勢いの良さを味わいたいなら、坊っちゃんの書評が入りやすい。猫の死の場面に近い、短く暗い語りを見たければ、夢十夜の書評も参考になる。