風の又三郎の感想ネタバレ|結末の意味と正体を辛口評価

結論:正体を決めない勇気は見事。ただし「お話」を求めると肩透かしを食う

宮沢賢治「風の又三郎」は、転校生が風の神かどうかを最後まで確定させない、そのこと自体が魅力の童話だ。霧の中で嘉助が迷う一場面だけでも読む価値があり、傑作と呼んで差し支えない。

一方で、全体は起承転結のある物語というより、九月の小さな学校の日々を並べた断片の連なりに近い。山場の取り方も中盤の挿話の配置も、構成としては粗い。物語に筋の通った盛り上がりを求める人には、劇薬どころか、拍子抜けする作品になりうる。

最小限のあらすじ

谷川のそばの小さな学校に、九月一日の朝、見知らぬ赤い髪の子が座っている。先生は、転校生の高田三郎だと紹介する。六年生の一郎や五年生の嘉助たちは、風が吹くたびに現れる三郎を、土地の言い伝えにある風の神「風の又三郎」ではないかと疑う。子どもたちは三郎と遊び、ぶつかり合いながら、秋の数日を過ごしていく。

風の又三郎の魅力と読みどころ:正体不明の転校生を描く独自の仕掛け

「風が吹いたんだい」が示す、疑いの育て方

この作品がうまいのは、三郎を風の神だと断言する役を、作者でも語り手でもなく、五年生の嘉助という一人の子どもに任せたことだ。最初の朝、風がどうと吹いて教室のガラス戸が鳴ると、嘉助は「ああわかった。あいつは風の又三郎だぞ。」と叫ぶ。以後、嘉助は三郎の周りで風が吹くたびに同じ確信を強めていく。

一方で、三郎の行動は、人間の子どもとして説明がつくように書かれている。たとえば葡萄とりの場面では、栗の木の上からしずくを降らせた三郎が「風が吹いたんだい。」と言い張る。木を揺すったのは明らかに三郎自身で、読者には嘘の笑い話として読める。ところが、同じ口が風を名乗るので、嘉助の説と地続きになってしまう。幻想か現実かを一つの台詞で両立させる、小さいが巧みな仕掛けだ。

霧の中の嘉助:文章のリズムで見せる、ほぼ幻想の一場面

最大の見せ場は、馬を追って草原に迷い込んだ嘉助が霧に巻かれる場面だ。ここで文は急に短くなり、「空が光ってキインキインと鳴っています。」のように、感覚の語が主語を奪っていく。すすきの穂が「あ、西さん、あ、東さん」と言っているように見える箇所では、迷った子どもの方向感覚の崩れが、そのまま言葉の揺れになっている。

そのあと嘉助は草の中で眠り、夢の中で、ガラスのマントとガラスの靴を身につけた三郎が空へ飛び上がるのを見る。目覚めると馬も三郎も目の前にいる。夢の中の三郎と現実の三郎を、改行と*の区切りだけでつないだ処理は大胆だ。ここを読むと、この童話が「風の神の正体当て」ではなく、子どもの目に世界がどう見えるかを書いたものだとわかる。同じ作者の「注文の多い料理店」が山の中の不条理を笑いにした作品だとすれば、こちらは山の気配を恐れと親しみのまま残した作品だ。

※ここから結末に触れます。

結末の意味:先生の説明があっても「風の又三郎だった」と言う理由

最後の朝は、烈しい嵐だ。一郎は夢の中で、三郎から聞いた歌を聞き、飛び起きて外へ出る。風が胸の底までしみ込んだように感じ、自分も空を翔けていくような気持ちになる。そして学校で先生から、三郎が父親の会社の都合でもう別の土地へ行ったことを聞く。モリブデンの鉱脈は当分手をつけないことになったから、というのが理由だ。

この説明は、現実的で、味気ない。それでも嘉助は「そうだないな。やっぱりあいづは風の又三郎だったな。」と高く叫ぶ。現実の理由が示されたからこそ、子どもたちは三郎を風の神の側へ戻すことで、別れの寂しさを引き受けたように読める。最後の二人が、相手がほんとうにどう思っているか探るように顔を見合わせたまま終わるのも、いい。信じている子と、信じきれない子の沈黙で幕を閉じるので、読者は結論を預けられる。

風の又三郎の欠点・違和感:忖度なしで挙げる、未完成ゆえの弱さ

中盤は挿話の並びで、物語が前に進まない

霧の場面が突出して強いぶん、その前後が弱い。初日の朝と霧の事件までは緊張感があるが、そのあとの葡萄とり、水泳、発破、毒もみ、鬼っこと続く部分は、どれも夏の終わりの遊びの描写として楽しい一方で、一本の線としては結ばれていない。耕助が風の悪口を並べ、三郎が「それから?」と問い詰めて笑う場面は愉快だが、風の神かもしれない転校生が、なぜ風の悪口に敏感なのかという核心には届かない。

挿話ごとの完成度は高い。だが、章を入れ替えても大筋が崩れないのは、長編の構成として物足りない。「次を読ませる力」が、霧の一場面に頼りすぎている。

三郎と大人たちの距離が、肝心のところで曖昧

三郎は、鉛筆をかよのために差し出す優しさを見せる一方で、鬼っこでは本気になって水をはね飛ばし、嘉助の腕を引っぱりまわす。この落差は、人間の子としては自然だが、風の神かもしれない存在としては何を表しているのか判然としない。専売局の男が来たときに「ぼくを連れにきたんじゃないや」と身構える反応も、たばこの葉をむしった程度の罪にしては大げさで、ここは三郎の怯えが物語にうまくつながっていない。

夕立の場面で、誰かが叫んだ「雨はざっこざっこ雨三郎、風はどっこどっこ又三郎。」に三郎が震え上がる箇所も、同様だ。誰が叫んだのか、なぜそこまで怖がったのか、説明は一切ない。曖昧さが魅力になっている箇所もあるが、ここは謎の置き方が雑に見える。書き手としては、不安を残すなら理由の手がかりも一つは置いてほしい。

推敲の途中に見える、仕上げの甘さ

青空文庫の本文には、「読本の(二字空白)ページ」「馬にやる(不詳)」のように、空白や不詳のまま残された箇所がある。生前に発表されなかった作品なので、作者が最後まで手を入れきれなかった跡と見るのが自然だろう。仕方のない面はあるが、読者はその穴を抱えたまま読むしかない。

さらに、整列の場面で学年ごとの人数を「六年生は一人、五年生は七人、四年生は六人、一二年生は十二人」と並べたあと、すぐ「二年は八人、一年生は四人」と数え直すなど、数の書き方が読み取りにくい箇所もある。細部の粗さは、この作品の自由さの裏返しでもあるが、気づくと小さく引っかかる。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

向いているのは、筋よりも空気や感覚の描写を味わえる人、そして物語の「わからなさ」を楽しめる人だ。子どもの目線で自然を見る小説が好きなら、霧の場面と最後の嵐の朝だけで、元は取れる。

向かないのは、伏線の回収や、明快な謎解きを期待する人。そういう人が読むと、中盤の挿話の並びが長く感じられるだろう。賢治の作品が初めてなら、先に「銀河鉄道の夜」のように結末へ向かう力の強い作品を読み、そのあとで本作に戻ると、断片の連なりという作りがかえって面白く見えてくる。