結論:動物たちの訪問劇は絶品。ただし「なぜ上手くなったか」の説明を放棄した童話
宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」は、下手なセロ弾きが夜ごとの珍客に振り回されるうちに、いつのまにか喝采を浴びる側に回る童話だ。猫、かっこう、狸の子、野ねずみと続く四つの訪問は、笑いと痛みの配分が見事で、何度読んでも面白い。一方で、肝心の「上達」は作中でほとんど描かれず、読者に丸投げされる。傑作の手触りと、設計の穴が同居する作品だ。
最小限のあらすじ
ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く楽手だが、楽団でいちばん下手で、楽長に毎日叱られている。演奏会まで十日。彼は町はずれの水車小屋に帰ると、夜通しセロを弾き続ける。そこへ毎晩、猫、かっこう、狸の子、野ねずみの親子が順に訪ねてくる。
ゴーシュはなぜ上達したのか?四つの訪問に見る独自の深掘り
猫の場面:怒りが「演奏」に変わる最初の転換点
最初の客の猫は、トマトを持ってきて「シューマンのトロメライをひいてごらんなさい」と言う。ゴーシュは怒りに任せ、ハンカチを裂いて耳に詰め、「嵐のような勢」で「印度の虎狩」を弾く。猫は目から額から火花を出して暴れ回る。ここで面白いのは、ゴーシュの怒りが初めて「人に届く音」になっていることだ。楽長に言われた「感情というものがさっぱり出ない」を、彼は皮肉にも猫への腹立ちで克服してしまう。マッチを猫の舌ですって煙草に火をつける一幕まで含め、ドタバタの中に主人公の意地の悪さが出ていて、人物がきちんと立つ。
かっこうの場面:「鳥の方がほんとうのドレミファ」と気づく瞬間
二番目のかっこうは「ドレミファを正確にやりたい」とやって来る。ゴーシュは弾くうち、「これは鳥の方がほんとうのドレミファにはまっているかな」と思い始める。教える側のつもりが、聴き手として耳を鍛えられている。この逆転が、作品でいちばん知的な部分だと思う。音程の正しさとは何かという問いが、「かっこう」の一語だけで立ち上がる。
そして窓ガラスに頭をぶつけ続けるかっこうの描写が痛い。ゴーシュが窓を蹴破るまでの流れは、笑い話の顔をした暴力で、後の「すまなかったなあ」に効いてくる。
狸の子と野ねずみ:セロそのものの欠陥と、「演奏の効用」
三番目の狸の子は小太鼓係で、「ゴーシュさんはこの二番目の糸をひくときはきたいに遅れるねえ」と指摘する。ゴーシュは「このセロは悪いんだよ」と悲しそうに答える。ここだけが、技術的な欠点を具体的に直す場面だ。冒頭の「これはじつはゴーシュも悪いのですがセロもずいぶん悪いのでした」と呼応しており、伏線の置き方は丁寧である。
四番目の野ねずみの親子は、子ねずみをセロの孔に入れて弾いてもらい、病気を治す。ゴーシュの音が「あんまの代り」になるという設定は、「注文の多い料理店」のような皮肉な寓話とは違い、芸が誰かの役に立つ温かさを描く。
※ここから結末に触れます。
ラストの「すまなかったなあ」はなぜ出てくるのか
本番の晩、アンコールで押し出されたゴーシュは「どこまでひとをばかにするんだ。よし見ていろ。印度の虎狩をひいてやるから」と、猫を追い回した曲を弾く。聴衆は静まり返り、楽長は「十日前とくらべたらまるで赤ん坊と兵隊だ」と褒める。家に帰ったゴーシュは窓の外を見て、「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。」と言う。
称賛された直後に、褒めた人間ではなく鳥へ向かうこの一言が、この作品の核心だと思う。彼が成長したのは楽団のためではなく、夜ごとに自分の音を聴いてくれた相手のおかげだと、本人が気づいている。短い一行で、成功譚が感謝の物語に反転する。ここは文句なしに巧い。
忖度なしの欠点・違和感:ゴーシュの成長が「結果」でしか描かれない問題
上達の過程が、本番で一気に飛ぶ
四つの訪問の後、本文はいきなり「それから六日目の晩でした」と飛び、演奏会が終わった控室から始まる。つまり、ゴーシュが楽長の言う「表情」や、他の楽器との「合わなさ」をどう克服したかは、一切描かれない。猫の場面の怒り、かっこうの場面の耳、狸の場面の糸の遅れと、材料は揃っているのに、それが本番の演奏でどう生きたのかを見せない。しかもアンコールで弾くのは第六交響曲ではなく、猫を追い回した「印度の虎狩」である。楽団の課題曲が上達したのかは、最後まで分からない。
楽長と楽団の人物造形が、都合のよい装置になっている
冒頭であれほど厳しかった楽長が、本番後は「よかったぞお」と手のひらを返す。仲間も皆「よかったぜ」と言う。ゴーシュが虐げられる側から称賛される側に移るなら、彼らの態度が変わる理由は、もう少し演奏の中身で説得してほしい。ここは「いじめる側がいつの間にか味方になる」都合のよい展開に見えて、冒頭の緊張が回収されきっていない。楽長が最後に言う「からだが丈夫だからこんなこともできるよ。普通の人なら死んでしまうからな」という言葉も、褒め言葉なのか皮肉なのか分かりにくい。
動物たちの扱いが、ゴーシュの側の都合に偏る
猫には舌でマッチをすり、かっこうは窓に追い込んで傷つけ、野ねずみの子はセロの孔に押し込む。いずれもゴーシュが優位に立つ場面で、しかも彼は最後まで、はっきりと謝るのはかっこうに対してだけだ。猫や子ねずみへの扱いにも同じ重さがあるはずなのに、反省の対象は一羽に絞られる。結末の余韻は美しいが、他の動物に対する後始末が曖昧なのは、読み返すと引っかかる。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
約一万二千字で、一晩ごとの訪問者が入れ替わる構成なので、童話に慣れていない大人にも読み切りやすい。ドタバタと音楽の描写を楽しみたい人、「注文の多い料理店」のような寓話とは違う宮沢賢治の温かい面を知りたい人に向く。逆に、成長物語として因果の説明を求める人は、飛ばされた六日間に不満が残るだろう。賢治をもう一作読むなら、同じく動物が重要な役を担う注文の多い料理店の感想と読み比べると、笑いの質の違いがよく分かる。長めの作品に進みたい人には、銀河鉄道の夜の感想もある。



