芥川「河童」感想ネタバレ|結末の精神病院が怖い理由

結論:風刺の毒は一級、だが小説としては継ぎはぎ。結末の一枚で全部が化ける中編

「どうです? 一つとりませんか? これも職工の肉ですがね」。芥川龍之介「河童」は、この一言で読者の胃を掴む。河童の国を巡る愉快な旅行記の顔をして、資本家・芸術家・宗教・法律を片端から笑い、最後に語り手自身の足場まで崩してくる中編だ。

ただし、章ごとの出来には大きな差がある。前半の風刺は鋭く、後半は思想の見本市のように人物が出入りするだけで、物語の推進力は落ちる。それでも結末の一場面が全体の読み方を変えてしまうので、読み終えた後の印象は「雑多な風刺集」ではなく「ひどく後味の悪い一編」になる。気楽な幻想小説を求める人には劇薬、風刺と文体の仕掛けを味わいたい人には必読だ。

最小限のあらすじ

精神病院の患者、第二十三号が語る話。三年前の夏、上高地から穂高山へ登ろうとした「僕」は、霧の中で河童を見つけて追いかけ、穴に落ちて河童の国へ迷い込む。特別保護住民として暮らすうちに、医者のチャック、詩人のトック、哲学者のマッグらと親しくなり、河童の国の奇妙な法と習慣を知っていく。やがて国にいることが憂鬱になった「僕」は人間の国へ帰るが、一年後にまた「帰りたい」と思い出し、病院へ入れられる。

「河童」の風刺はどこが鋭いのか:独自の深掘り

職工屠殺法が示す、資本主義への笑いの質

第八章の書籍製造会社の工場で、本の原料が「驢馬の脳髄」の粉末だと明かされる。ここは出版そのものへの皮肉として軽く笑える。ところがその直後、機械の新案で職工が四五万匹解雇されても罷業が起きない理由が語られる。「それはみんな食ってしまうのですよ」。職工屠殺法があるから、肉にして食料に回すのだという。

うまいのは、語る側が悪意ゼロだという点だ。ゲエルもチャックも、これを残酷と思っていない。チャックは「餓死したり自殺したりする手数を国家的に省略してやる」と親切のように言い、人間の国の第四階級の娘が売笑婦になっているではないかと切り返す。憤慨するのは「感傷主義」だと言われてしまうと、読者はうまく反論できない。風刺が突き刺さるのは、河童が悪者だからではなく、論理が整っているからだ。嘔吐する「僕」の側が、むしろ割り切れない人間として浮かぶ。

ゲエルの「軽蔑も憎悪もできない微笑」という人物造形

第九章のゲエルは、この作品でいちばん立体的な人物だ。クオラックス党内閣はロッペが支配し、ロッペを新聞社長クイクイが、クイクイを自分ゲエルが、そしてゲエルを細君が支配している、と笑いながら語る。権力の連鎖を一気に家庭の力関係まで落とす落差が痛快だ。

極めつけは火事の場面である。隣家の火事と聞いて立ち上がったゲエルは、消し止めたと聞いて泣き笑いの顔になり、「隣はわたしの家作ですからね。火災保険の金だけはとれるのですよ」と小声で言う。「僕」はその微笑を「軽蔑することもできなければ、憎悪することもできない」と思う。ここで憎めない悪を書いてしまうところに、芥川の目の確かさがある。単なる悪役の資本家なら、読者は安心して怒れた。

トックの自殺と「ミニヨンの歌」の剽窃という皮肉

※ここから結末に触れます。

詩人トックは超人を名乗りながら、窓の向こうの家族の晩餐を羨み、「玉子焼きはなんと言っても、恋愛などよりも衛生的だからね」と言う。この矛盾が可笑しく、同時に痛い。その彼が、ピストルで頭を撃つ。机に残されたのは「いざ、立ちてゆかん。娑婆界を隔つる谷へ」で始まる詩で、マッグは「ゲエテの『ミニヨンの歌』の剽窃」と冷たく言い、トックは詩人としても疲れていたのだと片づける。

この処理がいちばん残酷だ。死んだ詩人の最後の言葉が、まず盗作かどうかで評価される。しかもクラバックは詩稿を握って「すばらしい葬送曲ができるぞ」と叫んで飛び出していく。友の死さえ作品の素材になる芸術家の業が、泣き叫ぶ雌の河童と並べて描かれている。僕はこの場面を、作者が自分の側にも刃を向けた箇所として読んだ。

語り手が正気かどうかを決めない、結末の仕掛け

冒頭の「序」で、これは精神病院の第二十三号が誰にでもしゃべる話だと明かされる。だから読者は最初から、全部が妄想かもしれないと構えて読める。それなのに最終章で、河童のバッグが水道の鉄管を抜けて見舞いに来る。「僕」は「ラディオのニウス」で知ったのだと聞き、机の上に黒百合の花束があると言うが、「僕は後ろを振り返ってみた。が、もちろん机の上には花束も何ものっていなかった」と括弧で外から突き放される。

ここで読者は、河童の国は妄想だという解釈を与えられる。しかしチャックの「早発性痴呆症患者はS博士をはじめ、あなたがた自身だ」という言葉が残っていて、正気と狂気の側が逆転する余地も消えない。序で見せた怒鳴り声、「貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、ずうずうしい、うぬぼれきった、残酷な、虫のいい動物なんだろう」が、読み終えてから効いてくる。同じ作家の「藪の中」が真相を決めない構成で読ませたのに対し、「河童」は語り手の正気を決めないことで、読者の立つ場所を揺らす。「藪の中」の感想と読み比べると、芥川の「決めない」技術の違いが見えて面白い。

「河童」の欠点と違和感:忖度なしの指摘

後半が思想の紹介に偏り、物語が止まる

前半は「僕」が河童を追う追跡劇に始まり、産児制限、恋愛、音楽会の大乱闘と、場面ごとに事件がある。ところが第十一章の「阿呆の言葉」は、箴言の羅列がほぼ丸ごと一章を占める。「幸福は苦痛を伴い、平和は倦怠を伴うとすれば、――?」といった短文はそれ自体が切れ味を持つが、物語の流れの中に置かれると、そこで時間が止まる。読者は人物の動きを追っているのに、突然読書メモを渡される。

第十四章の大寺院の見学も同じだ。ストリントベリイ、ニイチェ、トルストイ、国木田独歩、ワグネルと、龕の中の聖徒が順に説明される。芥川を知る読者ならうなずける並びだが、この並びに予備知識が要る時点で、小説の力だけでは立っていない。ここは作者の内側の話であり、読者に開かれていない。

「僕」が最後まで観察者のままで、成長も決断もない

語り手の「僕」は、河童の国で驚いたり吐いたりするだけで、状況を動かす選択をほとんどしない。ラップの憂鬱もトックの死も、彼はそばで見ているだけだ。風刺の語り手として傍観者の位置は理にかなっているが、そのせいで、国を出る決断も、帰りたくなる動機も弱い。

特に第十七章の「ある事業の失敗したために」河童の国へ帰りたくなる、という説明はあまりに薄い。しかもその部分は「S博士はその話はおよしなさいと注意した」と括弧で省かれる。省略は仕掛けとして効くが、読者から見れば、最も知りたい動機を取り上げられたまま終わる。これを余韻と取るか、肝心なところを書かなかったと取るかで、評価は割れるだろう。僕は、後者の不満が少し残った。

登場人物が多すぎて、親友ラップの扱いが雑になる

チャック、バッグ、ラップ、トック、マッグ、ゲエル、ペップ、クラバック、ロック、グルック。短いカタカナ名の河童が次々に出る。それぞれが役割の記号に近く、読み終えて個人として残るのは、トックとゲエルくらいだ。

とりわけ惜しいのは、「僕」が世話になった親友と呼ぶラップだ。雌に追われて嘴が腐り、家族の喧嘩に泣き、「さかさまに世の中をながめて見た」ものの「やはり同じことですね」と言う。ここまで憂鬱を背負わせたのに、ラップの物語は結末まで回収されない。ペップが発狂したことは最後に触れられるのに、ラップの行く末は語られない。登場人物を増やして社会の厚みを出すか、減らして関係を深めるかのどちらかに寄せるべきで、本作は前者を選び、その代償を払っている。

風刺の「出口」がないことの息苦しさ

これは欠点と呼ぶべきか迷うが、書き手として書いておく。河童の国の悪徳を並べ続けた末に、読者に残るのは「どこにも救いがない」という感触だけで、風刺として何を批判し、何なら良しとするのかが見えない。宗教は大寺院で戯画化され、芸術家は自殺するか嫉妬に狂い、法も資本も笑われる。年を取った河童の「安らかだった」暮らしが唯一の救いのように置かれるが、それは生まれる前から老いていた特異な境遇に頼ったもので、一般の読者が持ち帰れる処方ではない。批判の全方位射撃は爽快だが、そのぶん芯が散る。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

向いているのは、芥川の「羅生門」や「蜘蛛の糸」のような短くまとまった物語を読んで、もっと毒の強いものを探している人だ。「羅生門」の感想で書いたような、人間の論理が人をどこまで連れていくかという関心があれば、職工屠殺法の章は読む価値がある。

逆に、物語の筋の面白さを求める人には勧めにくい。時間がなければ、第一章から第四章(河童の国への落下と習慣)、第八章と第九章(職工とゲエル)、第十三章(トックの死)、そして最終の第十七章だけ読んでも、作品の核心は掴める。それが可能なほど章ごとの独立性が高いこと自体が、小説としての弱さでもあり、短い章を拾い読みできる気軽さでもある。

初出は『改造』昭和2年(1927年)3月号で、青空文庫で無料で読める。全体で約4万字、2時間ほどあれば通読できる。結末を知ってからもう一度冒頭の「序」を読み直すと、精神病院の窓の外の樫の木まで、違って見えるはずだ。