藪の中の感想ネタバレ|真犯人は誰か?真相を決めない構成を辛口評価

結論:「謎解き」として読むと肩透かし、「語りの装置」として読むと恐ろしく精巧

三人の当事者が、全員「自分が殺した」と語る。しかも三つの話は、細部まで噛み合わない。『藪の中』は、犯人を当てさせるための小説ではない。犯人を当てようとする読者の手つきそのものを、作品が観察している。

この仕掛けの精度は短編として群を抜いている。一方で、謎解きを期待して読んだ人は、置き去りにされたと感じて当然だとも思う。

初出は、青空文庫の図書カードによれば、雑誌「新潮」の1922(大正11)年1月号。底本は筑摩書房『芥川龍之介全集4』(ちくま文庫)を確認した。作品末尾には「大正十年十二月」と脱稿の日付が記されている。

最小限のあらすじ

山科の藪の中で、若狭の侍・金沢の武弘の死骸が見つかる。検非違使の取り調べで、木樵り、旅法師、放免、妻の母の四人が見聞きしたことを語る。続いて、盗人の多襄丸、武弘の妻・真砂、巫女の口を借りた武弘の死霊の三人が、それぞれ事件の核心を語る。問われているのは「誰が武弘を殺したか」ただ一点だが、三人の答えは全部違う。

『藪の中』の三つの告白はなぜ食い違うのか:独自の深掘り

七つの「語り」だけで組んだ構成の凄み

この作品には地の文がない。各節の見出しは「検非違使に問われたる木樵りの物語」「清水寺に来れる女の懺悔」「巫女の口を借りたる死霊の物語」と、すべて誰が誰に語ったかを示すだけだ。語り手が七人いて、作者の声はどこにもない。

前半の四人は、いわば証拠の層だ。木樵りは、死骸のそばに縄が一筋と櫛が一つ落ちていたと言い、馬は藪には入れないと言う。旅法師は、前日に男が弓矢を持って馬の女と歩いていたのを見たと言う。放免は、多襄丸を捕まえたとき弓矢を持っていたと言う。ここまでの情報は、一見すると客観的に見える。だからこそ、後半の三つの告白が同じ土台に乗らないことが効いてくる。

ここで一つ、読み返すと分かる細部がある。旅法師は男が「二十あまり」の矢を差していたと言い、放免は多襄丸が持っていた矢を「十七本」と数える。三本の差は、後から多襄丸が使ったのかもしれないし、旅法師の記憶違いかもしれない。作中はどちらとも言わない。証拠の層でさえ、確実とは言い切れないように書かれている。

多襄丸・真砂・武弘は、それぞれ何を守るために嘘をつくのか

三つの告白の違いは、事実のずれというより、「自分をどんな人間として残したいか」のずれとして読むと筋が通る。

多襄丸は、男を殺したのは自分だと認めたうえで、「二十三合目」まで斬り結んだと誇る。わたしと二十合斬り結んだものは天下にあの男一人だけだ、という言い方だ。彼は殺人者であることより、卑怯者でないことを守っている。女を連れ込む手口は嘘で組み立てたと平然と語るのに、決闘だけは正々堂々でなければならない。

真砂は、夫の「冷たい蔑みの光」に耐えきれず、気を失ったまま小刀を刺したと言う。自分は被害者であり、同時に夫を殺した哀れな女でもある、という位置に立つ。「死に切れずにこうしている」と語る彼女は、罪を認めながら、責任を状況に預けている。

死霊の武弘は、妻が「あの人を殺して下さい」と叫んだと語り、盗人がそれに色を失ったと言う。そして自分で胸を刺す。妻を裏切り者に、盗人をまだ人間らしい男に置き、自分は誰にも殺されなかった者になる。三人とも、最も守りたい一点だけは譲っていない。

※ここから結末に触れます。

真犯人は誰か:「見えない手」が小刀を抜いたという最後の一行

三つの告白のうち、最後に置かれた武弘の語りには、他の二つにない一文がある。胸に刺した小刀を、「誰か、――その誰かは見えない手に、そっと胸の小刀を抜いた」と言う。木樵りは死骸の胸に突き傷があったと言いながら、小刀も太刀も見なかったと答えている。死霊の話が正しければ、小刀を抜いて持ち去った第三者がいることになる。

では、その「誰か」は真砂か、多襄丸か、あるいは全く別の人間か。作品は答えない。ただ、この一文がなければ、三つの告白は「三人の誰かが嘘をついている」という問題で閉じていた。この一文が置かれたことで、問題は「三人とも嘘をついているかもしれず、全員が本当のことを一部だけ言っているかもしれない」に開いたまま終わる。結末を一つの事実に収めない、と作者が意図して決めた箇所だと読める。

忖度なしの欠点・違和感:謎解きを期待すると何を裏切られるか

「真相は藪の中」という決着の弱さ

最大の欠点は、物語が問いを立てておいて、答えの範囲すら絞らないことだ。ミステリーの形式を借りているのに、証拠の整合を最後に確かめる手がかりがほとんど残されていない。縄と櫛は出てくるが、櫛は三つの告白のどこにも現れず、誰のものかも分からない。回収されない小道具は、深読みを誘うより、単に宙に浮いて見える。

解釈の余地を残すこと自体は技法として正しい。ただ、余地が広すぎると、読者は「何を読み取れば正解に近いのか」を判断する足場を失う。作品の完成度が高いからこそ、この点は惜しい。

三人の語り口が、想像より似ている

もう一つの違和感は文体だ。多襄丸、真砂、武弘は身分も性格も違うのに、語りは「…ですが」「…ではありませんか?」といった修辞的な問いかけと、括弧書きの所作(「皮肉なる微笑」「突然烈しき歔欷」「長き沈黙」)で組み立てられていて、リズムが近い。語り手の声の違いは、使う一人称(「わたし」と「おれ」)と、自分を飾る方向の違いに助けられている部分が大きい。

特に真砂の独白には、芝居がかった感情の起伏が多い。夫の眼の冷たさを何度も強調する書き方は、彼女の心理を示すというより、読者に「その眼を信じるかどうか」を迫る作り物めいた力みも感じた。

女が「語られる側」に固定されている問題

三つの告白は、すべて真砂の「どちらか一人死んでくれ」「あの人を殺して下さい」という言葉を中心に回る。つまり彼女は、三人の男の語りの中で、それぞれ別の顔に塗り分けられる存在だ。この構造は作品の主題と合っているが、真砂自身の語りでさえ、夫の眼を見て揺らぐ被害者の型から出ていない。女の内面が、読者を欺く道具として使われる面が強い。現代の読者が引っかかる箇所だと思う。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

  • ミステリーの真相当てより、「語られた内容が信用できない」構造そのものを味わいたい人
  • 青空文庫で短時間で読める、完成度の高い短編を探している人
  • 映画『羅生門』が原作とする作品を、読み比べたい人(映画を観る前でも後でも、原作の語りの食い違いは確かめる価値がある)

読む順番としては、まず前半の四人の証言を軽く流し、後半の三つの告白で「自分は誰を信じるか」を一度決めてから、最後の死霊の語りの終わり方を読み直すと、仕掛けがはっきり見える。読み終えてすぐ、もう一度前半の木樵りの証言(縄と櫛、馬の通えない藪)に戻ると、細部がまったく違って見えるはずだ。

逆に、事件の真相を一つに絞りたい人には、苛立ちが残る作品だ。その苛立ち自体が、この短編が仕掛けたものだと割り切れるかどうかが、評価の分かれ目になる。