結論:小説家志望の青年が最後まで一行も書かない。その空白が主題であり、同時に最大の弱点
東京に着いた翌朝、田舎から出てきた青年は、小説で覚えた東京詞を「一語一語考えて見て口に出す」。森鴎外「青年」は、そんな小泉純一が上京して二か月余り、書くと決めるまでを追った長編だ。明治末の文壇を眺める観察録としては抜群に面白く、物語としては結末を放り出している。読む価値は高いが、小説としての満足までは約束できない。
青空文庫の表示で全体は約12万字。初出は雑誌「昴」の1910(明治43)年3月から1911(明治44)年8月の連載だ。山場に向かって盛り上がる型ではなく、場面を拾って読むほうが性に合う作品で、通読を前提にすると重い。
最小限のあらすじ
Y県の資産家の一人息子・小泉純一は、小説家になりたくて東京へ出てくる。紹介状を頼りに、人気作家の大石狷太郎(筆名・路花)を訪ね、谷中の初音町に小さな家を借りる。
そこで大石や同郷の画学生・瀬戸、隣家の娘お雪、芝居で知り合った未亡人の坂井夫人と出会い、さまざまな刺激を受ける。純一の課題は、その刺激を材料に「何を書くか」を見つけることだ。
「青年」の深掘り:大石路花の言葉と「生きる」の日記、小泉純一は何を見たのか
大石路花の「地獄を買う」問答は、何を茶化しているのか
最初の山は、第二章の大石の部屋だ。新思潮の記者・近藤が、大石の小説を「真の告白」と持ち上げ、アウグスティヌスやルソーの名を挙げる。大石は、ルソーは堅い男だったではないかと切り返し、自作の人物は「だらしのない事を遣っている」と突き放す。近藤は引かない。「地獄を買っていて、己は地獄を買っていると自省する態度が、厳粛だと云うのです」。
私はここを、告白を売りにする小説家とそれを祭り上げる批評への、鴎外の冷やかしとして読んだ。しかも大石は、純一の曇りのない瞳に見つめられて、つい口数が増える。新聞は手から離さず近藤をあしらいながら、少年が現れると気が緩むのだ。この人物の愛想のなさと、不意の人の良さが同時に出る場面は、数ページで大石を立たせている。
大石は、まだ読んでもいない紹介状を机に置いたまま、純一に飯を食わせて「又遊びに来給え」と出ていってしまう。説明を省いた人物の描き方は、のちの章でも効いている。
「拊石」と「鴎村」が出てくる青年倶楽部の場面は、作者の自嘲として読める
第六章で瀬戸が純一を連れていく会で、青年たちは今夜講演に来る拊石を噂する。「ライフとアアトが別々になっている奴は駄目だよ」と近眼の男が声を張り、人形を踊らせて物陰で冷笑しているようだと言う。教員をやめた小説家という特徴からすると、漱石を重ねて読むのが自然だろう(作中は実名ではない)。
面白いのは、話題がそこから「鴎村」、つまり作者自身を思わせる、役人をしている文士に移る点だ。「厭味だと云われるのが気になると見えて、自分で厭味だと書いて、その書いたのを厭味だと云われているなんぞは、随分みじめだね」。純一自身も、この人を「干からびた老人の癖に、みずみずしい青年の中にはいってまごついている人」と想像している。作者が自分を悪く言わせる余裕は、辛口の書き手として羨ましい。ここは「青年」の中でも読み直す価値が高い。
日記の「生きる。生活する。」は、創作者にこそ刺さる
第十章の日記で、純一は考える。作る、神が万物を作るように製作する、が最初の考えだった。しかしそれができない。ならどうするか。答えは短い。「生きる。生活する。」そして続ける。「答は簡単である。しかしその内容は簡単どころではない」。学校を駆け抜け、職業を駆け抜け、その先に生活があると思っているうちに、先には何もなくなる。「現在は過去と未来との間に劃した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである」。
書こうとして書けない人間が、書く前に「生活とは何か」へ逃げていく。この逃げが、書き手の目には痛いほどリアルだ。この日記の直前、ボルクマン夫人やエルラの出る芝居の場面で、青年エルハルトが「わたくしは生きようと思います」と叫ぶのも、偶然の配置には見えない。純一の「生きる」に、芝居の叫びが重ねてある。
※ここから結末に触れます。
箱根の元日で「書く」と決めるラストは、何を意味するのか
終盤、純一は坂井夫人に誘われて箱根へ行く。大晦日の夜、夫人の泊まる福住で、夫人と画家の岡村の会話を聞いた純一は、二人が夏を一緒に過ごしたと悟り、自分が「車の第三輪」ではないかと席を立つ。眠れない夜に出した結論が、「箱根を去る」ことだった。
翌朝、純一は考えを整理する。夫人への不平は「あの奥さんを失う悲から出た不平ではない。自己を愛する心が傷つけられた不平に過ぎない」。そして東京で書こうと決める。題材は、亡くなった祖母が語った伝説だ。「好いわ。この寂しさの中から作品が生れないにも限らない」。九時八分の急行に間に合うように宿を発つところで、物語は止まる。
ここでの純一は、初めて自分の感情を自分で分解して見せる。恋に負けた自分を、悲しみではなく自尊心の傷だと見抜く。上京から続いた「見る人」が、ようやく「書く人」の手前まで来る。成長というには小さいが、小さいなりに筋は通っている。
末尾には、作者自身の一文が付く。「鴎外云。小説「青年」は一応これで終とする。」書こうと企てたことの一小部分しか書かず、物語の中の日数は六七十日に過ぎないと、鴎外は書く。連載が、いつの間にか二年に及んだとも。
忖度なしの欠点・違和感:「青年」の結末が物足りない理由と、読みにくさの正体
純一は最後まで受け身で、障害のない主人公になっている
純一は、有力者への紹介を断って上京し、生活の心配もない身の上だ。大石にも「生活難と闘わないでも済む」と言われる。主人公に外から迫る壁がないので、物語は純一が人から刺激を受ける連続になる。自分から動くのは、家を借りる、知らない人を訪ねる、といった入口の場面だけだ。
一度は唐机に向かって書こうとするが、「頭次第だと云う頭が、どうも空虚で」と、筆を置く。書けない理由が、才能の不足でも外の妨げでもなく、ただ空っぽだという点が、読み手にとっては物語の推進力にならない。創作者として言えば、主人公が何も賭けていない長編は、中盤で読者の呼吸が緩む。
坂井夫人とお雪が、純一の理屈の中でしか動かない
坂井夫人は、芝居の廊下で「宅に書物が沢山ございます」と言い出す謎の未亡人として魅力的に登場する。しかし、のちに純一の日記が「恥辱のページ」と呼ぶ夜の出来事は、純一の側の言葉でしか語られない。夫人は「打勝たれた人の腑甲斐ない感じ」を純一に残すが、なぜ純一に近づくのかは、最後まで純一にも読者にも分からない。謎として魅力にするには、夫人の側に一つでも手がかりが欲しかった。
お雪も同様だ。彼女を「破砕し易い物、こわれ物」と見立てて自分の欲を引っ込めるくだりは、純一が自分に都合のよい理屈を先に組み、気持ちの冷却が後から付いてくる形になっている。お雪の側の気持ちは、純一の推測と、語り手の一言で片づけられる。若い女性の人物造形が、純一の自己分析の小道具に寄りすぎていると感じた。
議論と外国語の注釈が、物語の流れを止める
登場人物はよく議論する。大石との対話、倶楽部の議論、友人・大村との話。内容は面白いのに、話が長く、外国人の名や、原語のまま埋め込まれたフランス語やラテン語の言葉が頻出する。Aurelius Augustinus、Rousseau、Albert Samain、Xanthisのように、名前だけ出して説明しない箇所が多い。明治末の教養が前提で、注釈なしの版では、読み手の足が止まる。
話題が文学論、恋、芝居、同郷の忘年会と散らかるのも、通読しづらい理由だ。それぞれの場面は精密に観察されているが、章どうしの結びつきが弱い。伏線が回収されるというより、観察の断片が並べられていく印象が強い。
「一応これで終」の幕切れは、主題と作者の事情が重なって見分けにくい
「書く」と決めた直後に物語が終わるのは、主題としては筋が通る。純一が書く姿を描いてしまえば、嘘になるからだ。一方、作者の付記には「書こうと企てた事の一小部分しかまだ書かず」とある。つまり、これは計算された余白というより、書き残しを残したまま区切った形でもある。
読み手にとっては、どこまでが狙いで、どこからが中断か判別できない。純一がこれから何を書くのか、祖母の伝説がどう現代語で蘇るのかは、最も読みたい部分なのに、予告だけで終わる。評価を割るのは、まさにここだ。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
向いているのは、明治末の文壇の空気を、作家同士の皮肉まで含めて味わいたい人だ。大石、拊石、鴎村をめぐる会話は、同時代の書き手の視線が見える貴重な資料にもなる。上京した青年を軸にした長編という点で、夏目漱石の三四郎と読み比べる楽しみ方もある。
向いていないのは、事件と結末の起伏を求める人だ。鴎外の長編を一本だけ先に読むなら、筋がはっきりしている雁のほうが入りやすい。短く済ませたいなら、「青年」は第二章(大石との初対面)、第十章と第十五章(日記)、第二十四章(箱根の元日)の順に拾い、残りは興味のある場面だけ読む手がある。
鴎外が「舞姫」で描いた青年の自意識を知りたい人は、舞姫を先に読むと、純一の頼りなさがより際立つ。





