結論:主役は安寿。彼女が退場する中盤で頂点に達し、後半は後始末に回る
森鴎外の「山椒大夫」の主人公は、題名の山椒大夫でも、名を残した厨子王でもなく、姉の安寿である。山へ登る朝の十数ページだけで、この小説は読む価値の元が取れる。
ただし、安寿が消えたあとの後半は、出来事を手際よく片づける報告文のようになり、前半の緊張を引き継げていない。文体の硬質な美しさに浸れる人には傑作、物語の起伏と感情の爆発を求める人には、後半で肩透かしを食う作品だ。
最小限のあらすじ
岩代から筑紫の父を訪ねる旅の途中、越後で母と引き離された姉の安寿と弟の厨子王は、丹後の分限者・山椒大夫に奴婢として買われる。二人は潮汲みと柴刈りの労働に耐えるが、逃亡の相談を聞かれて焼き印の夢を見る。安寿は弟だけを逃がして自分は沼に身を沈め、厨子王は都で出世して、のちに佐渡で盲目の母と再会する。1915(大正4)年1月の「中央公論」に発表された。
山椒大夫の魅力を解剖する|安寿の変貌と文体の硬さが生む怖さ
なぜ安寿の「豹変」は説得力があるのか
三郎に逃亡の相談を立ち聞きされた晩から、安寿は変わる。鴎外はその理由を一行も説明しない。ただ「顔には引き締まったような表情があって、眉の根には皺が寄り、目ははるかに遠いところを見つめている」と外側だけを描く。内面を語らないので、読者は弟の厨子王と同じ位置に置かれ、姉の沈黙が何を決めているのかを想像するしかない。
この距離の取り方が最も効いているのが、二郎に「一しょに山へやって下さい」と願い出る場面だ。本人でさえ「あの人の顔を見るまで、頼もうとは思っていなかったの」と言う。計画を練り上げた人間の行動ではなく、何かに憑かれた人間の行動として描かれる。弟を逃がす計画が、安寿の頭の中で固まったのではなく、安寿を通して向こうからやって来たように見える。これが後半の神がかった雰囲気の土台になる。
「ごらん。もう春になるのね」に込められた別れの設計
山の途中で安寿は、岩の隙間に咲く菫を弟に見せて「ごらん。もう春になるのね」と言う。直後に切り出されるのは、弟を逃がして自分は残るという話だ。春の菫と、これから命を捨てる者の落ち着きが同じ画面に置かれる。さらに泉の水を椀に汲み、「これがお前の門出を祝うお酒だよ」と口をつけて弟に渡す。
感情を叫ばせないまま、儀式の形で別れを済ませるこの手順が、泣かせにくる作品よりずっと痛い。厨子王が最後に「姉えさんのきょうおっしゃることは、まるで神様か仏様がおっしゃるようです」と言う場面は、読者がすでに抱いている違和感を、本人の口から確認させる。
人買いの手口と山椒大夫の「損得」で描く悪の怖さ
悪役の描き方も冷たく良い。山岡大夫は宿を貸さない掟のある土地で、芋粥を差し出す親切な船乗りとして現れる。母が金の入った嚢を預けたあたりから、「抗うことが出来ぬ」力関係がいつのまにか出来上がっている。佐渡の二郎と宮崎の三郎が指の形で値をつけ合う場面では、人間が銭の符丁に変わる。
山椒大夫自身も、怒鳴り散らす暴君としては描かれない。子供二人が死んでも別れないと言えば、二郎は「人手を耗らすのは損でございます」と進言し、大夫は「損になることはわしも嫌いじゃ」と受け入れる。残酷さが感情ではなく帳簿から出てくる。だから現代の労働や搾取の話として読み替えても古びない。
地蔵の夢と十文字の疵|焼き印の場面は現実か幻か
三郎が二人を広間に引き出し、赤く焼けた鉄を額に当てる場面は、本作で最も長く、最も細かい動作の連続で書かれる。文は「引き立てて」「引きずって出る」「抜き出す」と短い動詞で畳みかけ、読点が少ないまま息継ぎなしで進む。読者は痛みの前に、動作の速さで追い詰められる。
ところが次の一文で、二人は「はっと思って、二人は目をさました」。すべて夢だったと分かる。それでも、地蔵の額に「十文字の疵」が残っていることで、夢が現実を肩代わりした形になる。実際の焼き印を安寿の顔に残さず、仏像に引き受けさせることで、物語は残酷さを見せながら、二人の身体を無傷のまま先へ進ませる。この処理は巧みだが、同時に、現実の痛みを夢と信仰へ逃がす作者の手つきでもある。
山椒大夫の欠点と違和感|結末が都合よすぎる理由を厳しく突く
※ここから結末に触れます。
安寿の入水が「伝聞」で処理される構成の弱さ
最大の不満は、物語の頂点であるはずの安寿の死が、場面として書かれないことだ。厨子王が山を降りたあとの安寿については、討手が沼の端で拾った「小さい藁履を一足」と、翌日に国分寺から人が出て「安寿の入水のこと」を聞いてきたという報告だけが残る。
省略の美学として読めば筋は通る。藁履一足は確かに強い。だが、そこまで安寿の内面を見せなかった作品が、最後の決断の瞬間までも外から眺めるだけなので、読者は結局、安寿が何を考えて沼に向かったのかを一度も知らされない。弟のために残った身が、拷問と労働の予想に耐えられず入水したのか、逃亡の秘密を守る口封じのためだったのか。解釈の余地ではなく、書き手が作ってしまった空白に近い。
厨子王の出世が速すぎて、犠牲の重みが薄れる
厨子王が国分寺を出て都に着くと、清水寺の籠堂で関白師実と出会い、守本尊が娘の病を治し、元服して丹後の国守になる。ここまでの展開は驚くほど速い。苦しみに時間をかけた前半と比べると、運が開ける後半は数ページで駆け抜ける。姉が「運験しだよ」と賭けた通りに、全部が当たるのだ。
安寿の賭けが当たる構図自体は、物語の約束としては分かる。しかし、その当たり方に障害が一つもない。追手は鐘楼守の嘘で撒かれ、住持は偶然ではなく人格で守ってくれ、関白は夢告げで向こうから話しかけてくる。創作者の目で見ると、主人公の努力ではなく配役の善意で問題が解決していて、ご都合主義の印象が拭えない。
山椒大夫一族への罰が軽すぎる
国守になった厨子王は丹後での人身売買を禁じ、山椒大夫は奴婢を解放して給料を払い、「農作も工匠の業も前に増して盛んになって、一族はいよいよ富み栄えた」と書かれる。焼き印を押し、安寿を死に追いやった家が、制度が変わっただけで、むしろ儲かって終わる。
鴎外に勧善懲悪を書くつもりがないのは明らかで、人身売買の根を制度に見る視点は現代的ですらある。それでも、安寿の犠牲に対する落とし前が、一族の繁栄という形で返ってくる読後感は、かなり苦い。苦くて当然なのか、書き手が突き放しただけなのか、その判断が作品の中で示されないのが引っかかる。
再会の場面が、ほかの場面ほど冷たくない
盲目の母が粟を干しながら「安寿恋しや、ほうやれほ。厨子王恋しや、ほうやれほ。」と唱え、守本尊を捧げた厨子王に気づいて目が開く。「厨子王」という叫びで二人が抱き合う。この終わり方は、それまでの抑制が嘘のように古典的な奇跡で閉じる。母の唱えごとの響きは見事だが、目が開く奇跡を足したことで、冷たい筆致を保った前半との温度差が、そこだけ浮いて見える。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
- 感情を叫ばせずに、行動と風景だけで悲劇を立ち上げる文章を味わいたい人
- 「舞姫」や「高瀬舟」より、物語性のあるものから鴎外に入りたい人
- 人身売買や奴隷労働を、損得の論理で描く冷たい筆を読みたい人
逆に、後半に派手な復讐や情感の爆発を期待する人には向かない。鴎外の別の持ち味を知りたい人は、高瀬舟の感想や舞姫の感想と読み比べてほしい。全体で約2万3千字と読みやすい長さなので、最初に読むなら、安寿が弟を逃がす山の朝の場面だけでも手に取る価値がある。


