舞姫の感想ネタバレ|豊太郎は最低か?相沢への憎しみを辛口評価

結論:エリスの悲劇より「語り手の言い訳の巧さ」が怖い。文語の壁を越えて読む価値はある

豊太郎は、エリスを捨てた。作中で起きた事実はそれだけで、彼自身もそれを知っている。それなのに手記の文章は最後まで、「弱き心」「友の勧め」「大臣の言葉」と、自分以外のものへ責任を分け与え続ける。『舞姫』の本当の面白さは悲恋の甘さではなく、この自己弁護の精巧さにある。

一方で、エリスの扱いには辛口にならざるを得ない。彼女は愛し、待ち、壊れるだけの人物で、最後は病名ひとつで物語から退場する。文語体という高い壁もあり、万人向けではない。それでも、日本語で書かれた「卑怯な男の告白」の原型を一度は見ておくべき一編だと考える。

最小限のあらすじ

官費でベルリンに留学した太田豊太郎は、母の期待に応える優等生だったが、「活きたる法律」になるだけの人生に疑問を抱き始める。そんな折、古寺の前で泣いていた踊り子エリスを助け、二人は深い仲になる。免官になった豊太郎は、友人の相沢謙吉の世話で新聞の通信員として暮らすが、やがて相沢は天方伯の秘書官として再びベルリンに現れ、エリスとの関係を断って帰国の道を選ぶよう迫る。恋と出世のどちらを取るか、が豊太郎の課題だ。

※ここから結末に触れます。

舞姫の豊太郎はなぜエリスを捨てたのか?語りの構造から読む魅力

「承はり侍り」の一言に集約される、豊太郎の決断のしくみ

豊太郎の決断は、よく見ると三度とも「決断」ではなく「反射」だ。相沢に関係を断てと言われたときは、「姑く友の言に従ひて」約束してしまう。天方伯にロシア行きを問われたときは、考えるより先に「いかで命に従はざらむ」と答える。そして帰国を打診された場面では、「承はり侍り」と応えてしまう。

面白いのは、そのたびに語り手が先回りして弁明を差し込むことだ。ロシア行きの場面では、信頼する人に突然問われると範囲を量らず承諾してしまう癖があると、自分で解説する。「友に対して否とはえ対へぬが常なり」という一文も同じ働きをしている。失敗する場面と、失敗を許してもらうための説明がいつもセットになっていて、読者は「そういう人だから仕方ない」と思わされる。書き手の目で見ると、これは性格描写であると同時に、語り手が自分に有利な判決文を書いている構造でもある。

冒頭の「日記が白紙」から最後の一文へ、恨みの矛先を動かす枠構造

手記は、帰国の船がセイゴンの港に着いた夜から始まる。豊太郎は日記を一行も書けなかった理由を「あらず、これには別に故あり」と二度繰り返し、「人知らぬ恨」を抱えていると明かす。この恨みが何なのか、読者は最後まで引っ張られる。

答えにあたる最後の二文はこうだ。「嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり。」ここで恨みの矛先は、エリスを捨てた自分ではなく相沢に向く。私はこれを、自分を憎まずに済ませるための最後の言い訳として読む。「良友」と持ち上げてから反転させる一文の運びは見事で、短編の締めとしては完成度が高い。

襁褓が二度出てくる場面だけは、筆が生きている

エリスの描写が弱いこの作品でも、襁褓の使い方だけは巧い。ロシアから帰った豊太郎が部屋に入ると、机の上に白い木綿とレースが積まれている。エリスはそのひとつを取り上げ、産まれてくる子のための「心がまへ」だと笑う。後半、相沢に裏切りを知らされて発狂したエリスは、その襁褓を顔に押し当てて泣き、身につけて幾度も取り出しては眺める。

同じ物が、希望の象徴から壊れた心の象徴へ反転する。説明を挟まず、物の力だけで落差を作っているので、ここだけは語り手の弁明が入り込まない。私はこの場面が、全編でいちばん正直な文章だと思う。

舞姫のエリスと相沢に残る違和感:忖度なしの欠点を指摘する

エリスの発狂は誰のための展開か

豊太郎が天方伯に応えて錯乱し、雪の中で倒れて高熱で寝込む。その数週間のあいだに、相沢が真相を知り、エリスに告げ、エリスは「パラノイア」で「治癒の見込なし」と診断される。つまり二人が正面から向かい合って別れる場面は、一度も書かれない。

これは書き手にとって都合のいい構成だ。豊太郎は意識を失っているので、泣くエリスに自分の口で理由を言う責任を負わない。エリスは「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」と叫んで倒れ、その後は赤児のようになる。最も重い場面を、語り手のいない場所で処理してしまった。悲劇の説得力は出ているが、豊太郎の罪を読者に問わせる場面が丸ごと消えている。人物造形としても、エリスは最後まで「純粋に愛して壊れる」役割から出ない。

相沢謙吉は悪役か友人か:憎しみの根拠が弱い

相沢は食事の席で、豊太郎の話を聞いて罵るでもなく、理屈で諫める。病の間は日々の生計を助け、帰国時にはエリスの母に生計の資金を渡す手配も豊太郎と話している。にもかかわらず、豊太郎は最後に彼を憎む。

根拠として出てくるのは、豊太郎が「今更おもへば」と語る推測だけだ。相沢が自分の言葉を先に大臣に告げたのかもしれない、という想像に留まり、作中では確かめられない。意図的な仕掛けだとしても、相沢の側の視点が一切ないので、読者は憎しみが正当かどうかを判定する材料を持たない。余韻としては残るが、「友が裏切ったのか、語り手が責任を押しつけたのか」という問いが宙に浮いたまま終わってしまうのは、構成の詰めの甘さだと感じる。

金を渡して終わる後始末は、罪の自覚に見合っていない

豊太郎は大臣に「承はり侍り」と応えたあと、頭の中が「免すべからぬ罪人」だという思いで満ちていたと語る。ところが、実際の後始末は、エリスの母に生計を営めるだけの資本を与え、胎内の子が産まれる時のことを頼んで帰国する、という処理にとどまる。

罪の自覚の大きさに対して、行動が小さい。これが意図的な皮肉なら効いているのだが、手記の語りは終始、反省を美文で包む方向に流れていて、その落差を作者が突き放しているようには読み取りにくい。結末が余韻になるか、言い逃れの上塗りに見えるかが、読者の側の好みに委ねられすぎている。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

  • 『山月記』や『人間失格』のように、自意識の強い語り手が自分を分析する文章を読んできた人。豊太郎の「弱き心」の説明は、『山月記』の李徴の自己分析と並べると、語り手が自分に対して甘くなる仕組みの違いが見える。弱さの告白という点では、『人間失格』との比較も面白い。
  • 語り手を信用しない読み方が好きな人。誰がどの場面で責任を外に預けているかを拾っていくと、短い作品でも何度でも読める。
  • 「悲恋の古典」として読むと拍子抜けする人は、まず相沢の台詞と豊太郎の返答の食い違いだけを追うといい。恋愛小説ではなく、責任回避の小説として読めば、この作品の評価は上がる。

文語体は慣れるまで重い。最初の数頁は、船室の独白のあとに留学の回想が続くので、息が切れやすい。つらければ注釈つきの版や現代語訳と併読しても構わない。エリスが登場してからは、一気に読める。