月夜と眼鏡 感想ネタバレ|蝶の正体より眼鏡売りが謎すぎる

結論:蝶が現れる場面は美しい。だが眼鏡売りが置き去りで、結末は静かすぎる

針に糸が通らない老婆が眼鏡を買い、その眼鏡のおかげで、夜の訪問者が人間ではないと分かる。小川未明「月夜と眼鏡」は、この一点の発想だけで読ませる童話だ。少女が蝶に変わる瞬間の静けさは、未明の掌編の中でも上位に入る。

ただし、発想を支えるはずの眼鏡売りは一度出てきて消え、傷ついた蝶がどうなったかも書かれない。余韻と呼ぶには、投げ出した部分が多い。短くて読みやすい作品なので一読の価値はあるが、「教訓がある童話」を期待すると肩透かしになる。

最小限のあらすじ

緑の季節の月夜、町はずれで一人暮らしの老婆が針仕事をしている。目がかすんで糸が通らずに困っていると、黒い眼鏡をかけたひげの眼鏡売りが窓の下に来て、べっこうぶちの眼鏡を売っていく。その後、指を怪我したという少女が戸をたたく。傷を見ようと眼鏡をかけた老婆の目には、少女ではなく一羽の蝶が映る。

「月夜と眼鏡」の眼鏡は何を見せるのか:独自の深掘り

眼鏡が「よく見える」ことの二重の意味

眼鏡売りは「これなら、なんでもよく見えること請け合いです。」と言う。老婆は時計の数字や暦の字を読んで、娘の時分のようにはっきり見えると喜ぶ。この時点の眼鏡は、ただ老眼を補う道具だ。

ところが二度目の訪問者の場面で、同じ眼鏡の意味が変わる。老婆は傷口を見るために眼鏡をかけたのに、見えたのは傷口ではなく、少女の正体だった。目的は針の穴に糸を通すことから、他人の怪我を見てやることへ、そして人ならぬものの姿を見ることへと、一歩ずつずれていく。道具の用途がずれる構造が、短い物語の中にきれいに収まっている。

蝶が人間に化けて訪ねるという設定の置き方

少女は十二、三歳で、香水製造場で白ばらの香水をびんに詰めて働いていると語る。体には香水の匂いがしみていて、老婆は「ぷんぷんと鼻にくる」ほどに感じる。花の香りをまとった少女が蝶だった、という仕掛けは、嘘のつき方としてよくできている。花から離れられない生き物が、花から取った香水の話をするからだ。

老婆は蝶を見て、穏やかな月夜には蝶が人間に化けて、夜遅くまで起きている家を訪ねることがある、という話を思い出す。民話めいた約束事を一文で渡して、読者に「そういう世界だ」と納得させる。説明としては乱暴だが、童話の速度には合っている。

月の光の描き方:「水の中に浸されたような」夜

冒頭、月の光は「なまあたたかな水の中に、木立も、家も、丘も、みんな浸されたよう」と描かれる。終盤、花園では「水のように月の青白い光が流れて」いる。この二つが呼応して、物語全体が水中のような静けさに包まれる。

老婆の耳の遠さも効いている。戸をたたく音を最初は風だと思い、次に窓の下の小さな足音を「いつもに似ず」聞きつける。感覚が鈍った人だけが、夜の異変に気づくという逆転が、この作品の入口になっている。

※ここから結末に触れます。

少女が消える結末は、なぜ追いかけて来ないのか

老婆は蝶を花園へ連れていく。昼間はちょうやみつばちが集まる場所だが、今は葉蔭で眠っていて静かだ。野ばらの白い花が雪のように咲く垣根のそばで、老婆がふいに振り向くと、少女は足音もなく姿を消している。老婆は「みんなお休み、どれ私も寝よう。」と言って家に入り、最後は「ほんとうに、いい月夜でした。」で終わる。

驚きも説明も打ち切って、月夜の肯定で閉じる。老婆が蝶を人間扱いしたまま、仲間のもとへ帰したと読める。野ばらの白い花が出るので、同じ未明の「野ばら」の読者は、少し嬉しくなるはずだ。

忖度なしの欠点・違和感:眼鏡売りと結末の穴

眼鏡売りの正体と動機が、まったく回収されない

眼鏡売りは「この町へは、はじめてですが」と自分で言う。月がいいから売って歩くのだとも言う。つまり彼は、老婆の困りごとを狙ったのでも、蝶の来訪を知っていたのでもない、ただの行商人として振る舞っている。それなのに、売った眼鏡はたまたま蝶の正体を見抜くものだった。

これを「月夜だから起きた不思議」と受け取れば済む、という読み方はある。しかし作品が一番時間をかけて描いたのは、この男の登場と眼鏡の説明だ。その男が銭を受け取ったら立ち去り、草花だけが残る。物語の前半を預けた人物に、後半で一度も触れないのは、構成のバランスを崩している。眼鏡に魔力があるのか、眼鏡売り自身が月夜の存在なのか、どちらかの手がかりが一行でもあれば、眼鏡の発想はもっと締まった。

傷ついた蝶の行方を書かないのは、余韻か手抜きか

少女は指を傷つけ、血が止まらないと訴えて、老婆の家に来た。蝶と分かった老婆は「そのこちょうは足を傷めていたのです」と、地の文で事情を確かめる。ここまでは筋が通っている。しかし老婆は薬を塗らず、手当ても言葉もかけないまま、花園へ連れ出し、蝶は消える。

薬をつけてあげようと言った老婆が、正体を知った途端に何もしない。治したのか、逃がしただけなのか、蝶は助かったのか。そのどれも書かれない。老婆が「みんなお休み」と言うだけで、読者の側の気がかりは宙に残る。静かな終わり方としては悪くないが、「やさしい人に助けを求めに来た」という少女の訴えを物語の動力にした以上、助けの結果は書くべきだった。ここは余韻ではなく、約束した筋の未精算に近い。

少女の台詞が説明的で、蝶らしさが薄い

少女は戸口で、雇い先、仕事の中身、怪我をした経緯、老婆を選んだ理由まで、一息に説明する。「おばあさんがごしんせつな、やさしい、いい方だということを知っています」と、自分から相手の人柄を保証するのも不自然だ。傷の痛みに耐えかねて来た子どもの話し方というより、必要な情報を並べる書類に近い。

蝶の正体が後で明かされることを考えると、この長台詞は仕掛けのための説明として働いている。仕掛けが良いので許せるが、人間のふりをしている蝶の拙さや、慣れない口調といったほころびが一つでもあれば、眼鏡で見破る場面の驚きはもう一段強くなった。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

青空文庫の表示で約4,000字、10分もかからずに読める。向いているのは、夜の静けさと、人間でないものとの穏やかな交流を味わいたい人だ。道徳的な落ちや怖さを求める人には向かない。同じ未明でも、結末が破局に向かう「赤い蝋燭と人魚」とは読後感がまるで違うので、続けて読むと未明の振れ幅が分かる。

書き手の目で見ると、眼鏡という小道具の使い方は参考になる。一方、売り手の扱いと結末の精算が手薄な点は、そのまま失敗例として読める。「いい月夜でした」の一行を、物足りなさと取るか、救いと取るかで、この作品の評価は分かれる。初出は「赤い鳥」1922(大正11)年7月。