露伴「幻談」感想ネタバレ|怪談より釣り談義が長い問題作

結論:怪異は最後の数行だけ。それでも「怖さの置き方」は一級品

幸田露伴「幻談」は、怪談として読むと肩すかしを食う。竿が海から出入りする異変が起きるのは、青空文庫の表示で約1万8千字ある本文の半分を過ぎてからで、それまでは延々と江戸の釣りの作法が語られる。ただ、その退屈に見える前半こそが、終盤のわずかな怪異を効かせるための装置になっている。釣りに興味がない人には劇薬、語りの芸を味わえる人には上質な短編だ。

最小限のあらすじ

幕末に近い江戸、小普請入りした本所の旗本は、船頭の吉を連れて黒鯛(ケイズ)釣りに通っていた。二日続けて釣れず、帰り道の薄暮に、海の中から出入りする釣竿を見つける。竿を握ったまま浮いてきた水死者の指を外して竿を持ち帰ると、翌日は大漁になる。ところがその帰りの夕暮れ、昨日と同じ場所で、また竿が水面から出たり引っ込んだりしていた。

「幻談」の魅力を読み解く:釣り談義と水死者の竿が効く理由

なぜ冒頭にマッターホルンの話が置かれるのか

本題の前に、ウィンパー一行がマッターホルンで四人を失い、残った者が空に二つの大きな十字架を見たという挿話が置かれる。語り手はそれを「心は巧みなる画師の如し」という経文の言葉で締める。幻は外にあるのか、心が描くのか。この一言が、後の怪異を読むための物差しを先に渡している。しかも山の話で終わらせず、「今お話し致そうというのは海の話」と切り替えるので、読者は「これから怪談が来る」と身構える。身構えさせておいて、前半は釣りの話ばかり続ける。この焦らし方は意図的で、露伴の底意地の悪さが出ている。

釣りの蘊蓄が「怖さの下地」になっている

澪釣り、かかり前、段細の仕掛けといった細部は、単なる自慢話ではない。後半で吉が竿を調べ、「段細」の仕掛けの作りから「この人も相当に釣に苦労していますね」と持ち主の人柄まで読み取る場面は、前半の蘊蓄が無ければ成立しない。竿が良い物だと読者に信じさせるための積み上げなので、水死者が指を放さない執念にも説得力が出る。怪談の恐怖を、人物の情の側から用意している点が巧い。

旗本と吉の会話が、死体の登場を軽くする

水死者が現れても、二人は驚かない。旗本は「ヤ、お客さんじゃねえか」と流し、吉は「エエ、ですが、良い竿ですぜ」と竿のほうに目を向ける。漁師や釣り人が水死者を「お客さん」と呼ぶ慣れが、この軽さに現れている。恐怖を煽らない分、指を一本ずつ外して竿を奪う場面の生々しさが際立つ。釣れない日を「帰れっていうことだよ」と笑って流す旗本の人間の出来方と合わせて、会話だけで階級と気質まで描いている。

※ここから結末に触れます。

結末の「南無阿弥陀仏」と、竿を海に返す選択の意味

二度目の夕暮れ、吉は強がって「竿はこっちにあるんだから」と言う。しかし苫裏の闇では、竿があるのかどうかさえ見えない。「客も船頭もこの世でない世界を相手の眼の中から見出したいような眼つきに相互に見えた」という一文が、この作品の核心だと思う。幽霊の姿は現れない。互いの顔の中に、見たくないものを探す視線があるだけだ。そして旗本は念仏を唱えて竿を海に返し、物語は終わる。竿が本当に怪異の原因だったのか、前日に大漁だったのは祟りでなく幸運だったのか、何も説明されない。説明しないまま、持ち主の執念を認めて手放すという行動で収める終わり方は潔い。

「幻談」の欠点・違和感:怖くない、長い、語りが渋滞する理由

怪異の登場が遅すぎて、前半が読む体力を奪う

最大の弱点は、怪異に至るまでの距離だ。釣りの種類の比較(キス釣り、ボラ釣り、ケイズ釣り)や、役者の逸話、唐の詩人の竹探しの詩の引用などが連続し、物語の進行が何度も止まる。伏線として効く話もあるが、ボラ釣りの座り方やハタキ釣りの比較まで来ると、機能しているのは世界観の厚みより語り手の博識の披露だ。創作の立場からすれば、蘊蓄の量に比べて物語に回収される割合が低く、削れる箇所が確実にある。

「語り」の構造が、緊張感を自分で緩めている

全体が「先輩から承った話」を老人が語る口調で書かれ、「イヤ、斯様に申しますと」「よけいなことですがちょっと申し添えます」といった脱線が頻出する。口演の味は出るが、怪談に必要な張りつめた空気は作りにくい。特に、竿を持ち帰った翌日の場面では、竿を洗って調べる緊張の最中に、唐の詩人や狂歌師の竹探しの話まで挟まる。語りの芸としては楽しいが、怖がらせたい読者にとっては、語り手の饒舌が怖さを薄めている。

ほぼ「構造の遊び」で、人物の変化が乏しい

旗本も吉も、最初から最後まで気質が変わらない。同じ露伴でも、職人の執念が人を追い詰める「五重塔」や、彫刻家の情念が奇跡を呼ぶ「風流仏」のような人物の熱がここにはなく、登場人物は語りの駒に近い。怪異の原因を解く鍵も示されず、水死者の素性も語られない。曖昧さは狙いだと理解できるが、「幻とは何か」という冒頭の問いに、物語として答えを返したとは言い難い。問いの立て方が立派な分、回答の薄さが目立つ。

もうひとつ気になるのは、冒頭の問いと本編の釣り場面の距離だ。マッターホルンの十字架は、遭難者を見送った側の心が作った幻として読める。ところが海の場面では、旗本と吉の二人が同じ竿を見ている。一人の錯覚なら「心の画師」で説明がつくが、二人が同時に同じものを見る形にすると、冒頭の物差しは当てはまりにくくなる。意図した揺らぎだとしても、書き手としては、どちらの読みに寄せたいのかをもう少し見せてほしかった。

他の露伴作品との比較なら、「五重塔」の感想や「風流仏」の感想で、人物の熱量が主役の露伴を確かめられる。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

向いているのは、釣りや江戸の風俗の細部を楽しめる人、落語や講談のような語りの芸が好きな人、そして「怪異を説明しない怪談」に価値を見出せる人だ。短くて完結しているので、露伴の入口にもできる。一方で、はっきり怖い幽霊や、結末で謎が解ける物語を求める人には合わない。読むなら前半の蘊蓄を急いで飛ばさず、「語りの寄り道そのものが怪異を準備している」と構えて読むと、最後の一行が効く。声に出して読むと、句読点の間合いが講談そのもので、蘊蓄の長さが苦にならなくなるはずだ。本文の末尾には「(昭和十三年九月)」と記されている。