結論:「書けない」を小説にした構成は見事。だが題名ほど世相は撮れていない
織田作之助「世相」は、原稿用紙に九行しか書けていない作家が、その行き詰まりごと一篇にしてしまう変則の私小説だ。仕掛けの巧さは本物で、戦前戦後の大阪の裏通りを歩く文章の勢いも落ちない。ただし題名が約束する「世相」の中身は、浮浪する旧友ひとりの転落譚に収まってしまう。構造を読む楽しみは大きく、社会を描いた小説を期待すると肩透かしを食う。そういう作品だ。
最小限のあらすじ
昭和二十年の師走、作家の「私」は戦前の千日前を描く原稿が九行から進まず、時代とのズレに悩んでいる。そこへ小学校の同級生の横堀千吉が、復員兵のぼろ姿で夜中に転がり込む。横堀の闇市での転落を聞いた私は、これを書こうとするが、筆は進まない。初出は「人間」1946(昭和21)年4月号である。
「世相」の意味と構造:なぜ書けない話が一本の小説になるのか
書き出しの九行と「十銭芸者」「阿部定」という入れ子の構造
全七章のうち、最初の二章から五章にかけて、私は三つの「書けなかった小説」を順に語る。放置した千日前の殺人の話、検閲で世に出なかった「十銭芸者」、公判記録まで手に入れながら戦争で書けなかった阿部定。この三つが、現在の「書けない」を支える層になっている。
うまいのは、これが単なる回想で終わらないところだ。十銭芸者の筋は、酒場のマダムの話を聞いた帰り道、街を歩きながら私の頭の中で組み上がる。括弧書きの中で物語が増殖する場面は、作家が小説を拾う瞬間の実況として読める。創作する側からすると、この「拾う瞬間」を一場面として見せる勇気には唸る。
闇市の具体性:「カレーライス」と「下向きのスプーン」
第六章、横堀の復員後の三日間が、この作品の肉だ。五円の煙草は中身が代用品、白米のカレーは皿に伏せた大きなスプーンで飯をかさ上げしている。「その隙間の分だけ飯を節約してあるわけだと、狡いやり方に感心した」という観察の細かさは、思想よりも「腹をへらしている人間のペコペコの感覚」を信じると語る織田作の信条そのままだ。
金額も細かい。毛布は百円で売り、靴も百円、宝塚行きの切符を転売して五円が十五円五十銭になり、その直後に掏られて袋叩きに遭う。数字が転落の速度を測る定規になっていて、説教なしに「貧すれば」の過程が読める。
私が自分の方法を疑う場面:「老女の厚化粧」という自己批評
第七章で、私は横堀を書き始めて五枚をすらすら進めるが、それを悲しむ。書き慣れた放浪小説のスタイルで人物を動かしているだけではないか、と。ここで「いや、今日の世相が俺の昔の小説の真似をしているのだ」と強がり、すぐ自分で打ち消す。作家が自分の持ち芸を疑う文章は珍しくないが、これだけ露骨に「老女の厚化粧は醜い」とまで書く例は少ない。自虐が芸になっているので、ここは読みどころだ。
※ここから結末に触れます。
結末の「書くとすればあの妹」は何を意味するのか
大晦日、私は難波の横丁で街頭博奕の胴元に回った横堀と再会し、天辰の主人に連れられて上本町の「ダイス」のマダムの家へ行く。酒の席で天辰の主人が、阿部定と一度だけ関わりがあったと打ち明ける。マダムが「書かれまっせ」と茶化したあと、茶を運んで黙って出て行ったマダムの妹を見て、私は「書くとすればあの妹」と思いながら、焼跡を渡る風の音を聴く。
この終わり方は、小説が完成した宣言ではない。次の素材を見つけた作家の目で終わっている。つまり「世相」は、書けない状態を書き続けた末に、また書けない側へ戻る円環の小説だ。師走の風で始まり、風の音で閉じる構成も、その円環を音で補強している。
忖度なしの欠点・違和感:回想の長さと「世相」の看板倒れ
題名と中身がずれている:世相を見るのは横堀ひとりの目だけ
冒頭の老訓導は、牛の密殺、金巾、ローソクの洒落話と、世相をたっぷり運んでくる。だが彼は一章で退場し、後は私と横堀の周りの人物だけで進む。世相を描くと宣言した作家が、結局は旧友ひとりの流転に落ち着く。作中で私自身が「世相をだしにして横堀の放浪を書こうとしていたに過ぎない」と認めてしまうので、欠点を先回りして告白する形になっているが、告白したからといって欠点が消えるわけではない。
第二章から第五章の回想が長く、現在の時間が止まる
作品全体の半分近くを、戦前のマダム、美人座の女給、阿部定、天辰の主人の回想が占める。どれも濃く書けているので読ませるが、「書けない」という現在の問題は、その間ほぼ進展しない。冒頭の老訓導から終盤の横堀の登場まで、現在の出来事はほとんど起きず、読者の側は「いつ横堀が来るのか」と待たされる。ここは構成上の中だるみと言ってよい。
天辰の主人の告白が、唐突な締めに寄りかかっている
最後の場面で天辰の主人が語る阿部定との関わりは、驚きとしては効く。しかし伏線は主人が公判記録を持っていた点だけで、それ以前の描写は「律儀な小心者」の印象を重ねるばかりだった。結末のどんでん返しを、材料の積み上げではなく本人の長い独白で済ませるのは、小説の技としては安い。しかも妻のカツラや潔癖の話まで一息に語らせるので、語りが説明過多になっている。
女性の描き方は、現代の目では引っかかる
マダムや静子、阿部定が「淫蕩」「妖婦」の記号で語られる場面は、時代の語り口と割り切って読むにしても、人物としての内面は薄い。比較すると、同じ作者の「夫婦善哉」の蝶子は、女の側の意地と計算が行動の中に出ていた。「世相」の女たちは、語り手の作家意識の素材として消費される側に留まる。この偏りは、読者によっては最後まで気になるだろう。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
向いているのは、小説の仕組みそのものを楽しむ人だ。創作をする人なら、書けない時間を題材に変える手つきと、三つの未完の物語が重なる構成から学べるものが多い。敗戦直後の闇市の物価や手口を、数字と手順で味わいたい人にも合う。
逆に、ひとつの事件を最後まで追うスッキリした物語や、社会全体を描いた群像を期待する人には向かない。短編とはいえ長さは中程度で、回想の層に付き合う根気は必要だ。
織田作を初めて読むなら、まず夫婦善哉の感想ネタバレ|柳吉はなぜ許されるのかで語りの勢いを確かめ、次に「世相」で作家の自己批評へ進む順がおすすめだ。賭け事の怖さを描いた織田作「競馬」感想ネタバレ|注射器と一番の執念が怖いと並べて読むと、街頭博奕に取りつかれる横堀の姿も立体的に見える。


