柳田「日本の伝説」感想ネタバレ|姥神の謎解きは圧巻、構成は粗い

結論:謎解きの腕は一流、だが通読する「読みもの」ではなく事例の束

咳をする子供が、なぜ石の婆さんに麦こがしを供えたのか。柳田國男「日本の伝説」は、その素朴な疑問から出発して、東京の路傍の石像、駿河の池、三途河の鬼婆までを一本の糸で結んでしまう。着眼と推理の腕は文句なしに一流だ。ただし、これを一冊の物語として頭から通読する本だと思うと痛い目を見る。出典つきの短い事例が延々と並び、結論は「と思います」で終わることが多い。拾い読みと、一章ずつ読む使い方に向いた、劇薬ではないが癖の強い民俗学の入門書だ。

最小限のあらすじ

物語はない。全国の伝説を「咳のおば様」「驚き清水」「機織り御前」「片目の魚」といった章ごとにまとめ、各地の類話を並べて、その背後の共通する信仰を探っていく。初出は「日本神話伝説集」(日本児童文庫、アルス、1929年5月)で、若い読者に向けて書かれた。章の末尾の括弧には、典拠の書名と県・郡・村名が添えられている。巻末には都道府県別の「伝説分布表」がつく。

柳田「日本の伝説」の読みどころ:咳のおば様・姥神・片目の魚を結ぶ独自の深掘り

「昔話は動物、伝説は植物」というはしがきの比喩が、この本の読み方を決めている

はしがきの一節がいい。「伝説と昔話とはどう違うか。それに答えるならば、昔話は動物の如く、伝説は植物のようなものであります。」昔話は飛び歩くから、どこでも同じ顔をしている。伝説は一つの土地に根を張り、育つ。だから梅や椿のように、一本ごとに枝振りが違う。この比喩がわかると、本編の読み方が見えてくる。同じ型の話が全国にあるのに、各地が「自分のところで本当にあった事」と信じている。その不思議を、柳田は「標本」を並べて比べるように見せていく。序の「再び世に送る言葉」でも、その理由はまだ明らかでないと正直に書いている。答えを持たないまま問いの面白さで読ませるという設計は、書き手として真似したくなる潔さだ。

咳のおば様はなぜ三途河の婆様と同じ神なのか:最初の章で本の方法がすべて見える

冒頭の「咳のおば様」は、この本で一番出来がいい。本所の寺の横町にある、鬼のような顔をした二尺ほどの石の老女像。咳の子の親は、まず婆様に頼み、次に爺様のところへ行ってこう言う。「おじいさん、今あちらで咳の病気のことを頼んで来ましたが、どうも婆どのの手際では覚束ない。」この、神仏への願掛けの人間臭さを先に出しておいて、そこから論を進めるのが巧い。

そこから話は、供え物が履き物に変わっていく江戸の例、広島の馬の沓、下総の臼井の乳母「おたつ様」へ広がる。おたつは、追手の前で咳が出て見つかり殺された乳母で、供え物の麦こがしは食べると咳が出るものだ、と柳田は添える。「咳が出る苦しさを思い出して下さい」という供え方だったのだろう、という読みは、民話の細部を読む創作者の目としても学ぶところが多い。さらに、咳の姥は「関」の姥だったのが、せきという音から咳の病に結びついたという江戸の学者行智法印の説を紹介し、三途河(そうずか)は「界」の意味の日本語に後から漢字をあてたものだとまで進む。咳の婆様が、地獄の関所で亡者の衣を剥ぐ奪衣婆と、同じ根から出た石の神だったという筋に至るあたりは、推理小説の謎解きのような快感がある。十王経を「うその御経」と切り捨てるくだりも小気味いい。

この章が優れているのは、説明の順序にもある。まず東京の下町の石像という身近な場所を置き、次に咳の供え物が地域ごとに変わる例(豆や霰餅、麦こがし、馬の沓、草履)で「同じ型の変奏」を見せる。そのうえで、姥神が水辺に祀られることが多いという共通点を指摘して、乳母が水に落ちて死ぬ類話へつなぐ。読者は、個々の話を聞いているうちに、いつの間にか「姥」「水」「子供」という三つの鍵を渡されている。後の章で泉や機の話が出てきても、この三つを手がかりに読めるので、最初の章が全体の地図の役割を果たしている。伏線の置き方としても手本になる。

水が呼ぶと湧く驚き清水と、機を織る姫神:怪異を「柔らかい土」で説明する現実感覚

「驚き清水」の章は、越後の姨が井、曽地のおまんが井、上州の阿満が池と、人が呼ぶと水が湧くという話を並べる。ここで柳田は、怪異をただ面白がらない。実際には周りの土が柔らかく、足踏みの力が水に響いたのだろうと述べ、すぐその後で、それでも昔の人が泉に神を祀り、そこに村ができたという歴史へ戻っていく。不思議を否定せず、不思議が生まれた理由を、生活の側から拾い直す手つきが一貫している。

「機織り御前」では、越後の巻機山で姫神を背負って降りる途中で振り返り、片目になった弥右衛門の話から、淵の底から聞こえる梭の音へと進む。近江の比夜叉の池の、乳母が機の道具ごと人柱になる話は残酷で印象に残る。ここで本人が言う「昔話の最も面白い部分を、持って来て結びつけられ易い」という整理は、伝説が昔話に化けていく過程の説明としても的確だ。陸中原台の淵の話に「遠野物語」を典拠として引いているのも見逃せない。同じ著者の遠野物語の怪談集が、ここでは比較の材料として働いている。

※ここから結末に触れます。

子安の神から地蔵へ:終盤の章が「児童が神に愛せられる国」で結ばれる理由

終盤の地蔵をめぐる章は、鼻取りを手伝う泥足の地蔵、夜遊びで片目になった地蔵、縄でしばられる地蔵、泥や白粉を塗られる地蔵と、とにかく子供と遊ぶ地蔵の話が続く。そして結びにこうある。「日本は昔から、児童が神に愛せられる国でありました。」姥神が子安の神であり、道祖神や地蔵が子供の友であるという流れが、ここでようやく一本になる。咳のおば様に始まった本が、子供の遊びと信仰を主役にして閉じるのは、若い読者向けに書かれた本として筋が通っている。さらに「私のこの一冊の本はまだあまりに小さい」と言い切って終わる。派手な総括ではないが、読み終えた後に、近所の石の地蔵を見る目が変わる。

忖度なしの欠点・違和感:「日本の伝説」が読みにくい、途中で挫折する理由

事例の羅列が続き、論の山がどこにあるのか見えにくい

最大の欠点は構成だ。「片目の魚」の章では、東京の医王寺から上州、甲州、信州、越後、青森の猿賀神社まで、片目の魚の池が次々に並ぶ。行基の昆陽池、家原寺、加古川の教信寺と、似た話が三つ続く。事例を重ねるのは必要だが、各例の違いにどんな意味があるのかを、その場で整理してくれない。地名と典拠の括弧が文末ごとに挟まるため、読むリズムも細切れになる。ここで読者の集中は切れる。創作の視点で言えば、読ませたい一つの問いに対して、材料の置き方が平らすぎる。

答えを保留する章が多く、読後の手応えが弱い

「片目の魚」の章には、魚が片目になった理由は「ほんとうは誰にも説明することが出来ません」とある。序文でも、全国に散らばる理由は明らかでないと認めている。誠実ではある。しかし、咳のおば様の章が見事に決着するだけに、他の章の「まだわからない」が目立つ。しかも推理の多くが「と思います」「かも知れません」で運ばれ、決め手になる証拠を示さずに次へ進む。咳の姥と関の姥の関係も、行智法印の説を借りた推測の域を出ない。学問の入口として正直なのだが、読み物として見ると、盛り上がりを作ったところで肩すかしを受ける。

「児童向け」とうたう割に、語彙と固有名の壁が高い

本書は若い読者のために書かれ、1940年の再刊では話し方も変えたと「再び世に送る言葉」にある。それでも、十王経、奪衣婆、懸衣翁、棚守房顕手記といった名前が次々に出る。地蔵の章でも、典拠の書名が括弧で並ぶ。現代の読者は、子供どころか大人でも、知らない地名と書名で足をとられる。説明が丁寧なのはありがたいが、ひとつの章に詰め込まれた情報量は、児童書の軽さからは遠い。

もう一つ気になるのは、章と章の接続が連想頼みな点だ。「咳のおば様」の途中で、話は奪衣婆から熱田の姥堂、羽後や荘内の乳の神へと流れ、さらに弘法大師の井戸、産女の霊の話まで広がる。柳田の頭の中では一本の線なのだろうが、読む側には脇道の連続に見える。小見出しがないため、いま論のどこにいるのかを自分で追わなければならない。創作でいえば、語り手だけが全体像を知っていて、読者に地図を渡していない状態だ。各章の冒頭に「この章で確かめたいこと」を一行置くだけで、ずいぶん読みやすくなったはずだ。

さらに、同じ「と思います」型の結論が章をまたいで何度も出てくるため、どの説が強くどの説が弱いのかの濃淡が読者に伝わりにくい。行智法印の関の姥説のように、根拠の筋が通っている推論と、単なる思いつきに近い連想とが、同じ語り口で並べられている。そこは柳田の誠実さというより、読み手に判断を預けすぎた弱さだと私は感じた。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

向いているのは、昔話と伝説の違いを知りたい人、旅先の地蔵や池の由来が気になる人、そして伝説を物語の材料にしたい書き手だ。逆に、一本のストーリーを期待する人、結論がはっきりした本が好きな人には向かない。

読む順番は、はしがきを読み、「咳のおば様」で本の方法を味わい、「驚き清水」と「機織り御前」へ進み、最後に地蔵の章の結びを読む、という流れがいい。「片目の魚」は、飽きたら飛ばして構わない。巻末の伝説分布表は、自分の出身県を探して、あとから読み返す使い方が合う。同じ著者でも、山の人生は、実話の重さと、仮説の弱さが同居する別の読み味の本だ。柳田の「推理の腕」をまず確かめたいなら、この本の最初の章から入るのが一番早い。