結論:二人の「帰る女」と「落ちた男」を並べた構図は巧い。だが救いのなさを、父の長広舌に頼りすぎている
樋口一葉「十三夜」は、離縁を願って実家へ駆け込んだ妻が、父に諭されて夫のもとへ戻る一夜を描いた短編だ。出来事は小さいのに、読み終えると胸の底が冷える。上と下の二部構成が効いていて、前半の「説得される女」が後半で「別の道を歩いた男」と出会うことで、物語が一段深くなる。一方で、上の後半はほとんど父の理屈で押し切る場面で、読みやすいとは言えない。傑作と呼ぶ価値は十分にあるが、読者に体力を要求する一篇でもある。
最小限のあらすじ
旧暦の十三夜の夜、原田勇の妻お関は、息子の太郎を寝かしつけて黙って家を出て、上野の実家を訪ねる。夫の冷たい仕打ちに耐えかね、離縁状をもらってほしいと両親に訴えるためだ。父は弟の出世が夫の口利きによることまで持ち出して、考え直すよう諭す。お関は帰ることを決め、人力車で戻る途中、車夫が幼なじみの録之助だと気づく。
十三夜のお関の離縁の訴えと、帰る結末の意味を読み解く:独自の深掘り
冒頭一文が示す「帰れない家」の距離感
書き出しは、いつもなら勢いのよい黒塗りの車で門に着いて両親に出迎えられる娘が、今夜は辻から乗った車まで帰して、格子戸の外に立っているという一文だ。ここでお関の心の中の迷いが一気に語られる。戻れば太郎の母として原田の奥様でいられるが、離縁すれば太郎に継母の苦労を見せ、両親の自慢の鼻を折ってしまう。家の中から聞こえる父の機嫌のよい声と、外で震える娘の心という対比が、数行で出来上がっている。
一葉の文は句読点が少なく、一つの文が一頁近く続く。読みにくいのは確かだが、息つぎを許さない文章が、お関が言い出せずにいる息苦しさをそのまま読者に体験させる。内容と文体が噛み合っている点は、この作品の強みだと思う。
お関が語る夫の「鬼」ぶり:暴力のない虐待をどう描いたか
お関の訴えの中身は、殴られた、金を渡されないといった目に見える被害ではない。物を言うのは用事のあるときだけ、二言目には「教育のない身」と蔑まれる。嫁入り後半年ほどは大事にされたのに、子が生まれてから人が変わった、とも語る。夫は彼女を「太郎の乳母として置いて遣はす」と嘲る。
外から見えにくい傷だけで離縁を訴えさせたことで、この話は時代を超えて通用する。ただし、その夫の姿はすべてお関の口を通した証言であり、原田勇本人が登場する場面はない。この点は、後で欠点としても触れる。
後半の録之助との再会:同じ夜に別の道を行った二人
下の部で車夫が突然「もう引くのが厭やに成つたので御座ります」と車を止める。お関が心細く声を震わせて頼むと、男は詫びて引き直す。月に背けた顔を見て、お関は昔の友の名を呼ぶ。烟草屋の一人息子だった高坂録之助は、放蕩を尽くして家も妻子も失い、浅草の安宿で暮らす身になっていた。
面白いのは、録之助の語る転落の時期が、お関の嫁入りの噂が聞こえ始めた頃と重なることだ。お関自身も、十二から十七まで顔を合わせるたび、あの店に座る自分を思い描いていたと振り返り、「思ひ切つてしまへ」と心を定めて嫁いだ。二人とも、口には出さないまま別々の道を選び、別々に壊れている。作者は二人にはっきりした告白をさせない。だから恋のなれの果てというより、「言わなかったこと」の重さが残る。
※ここから結末に触れます。
結末の別れ方:「其人は東へ、此人は南へ」が突き放すもの
広小路でお関は紙幣を小菊の紙に包んで渡し、録之助はそれを思い出にすると受け取る。そして物語は、「其人は東へ、此人は南へ、大路の柳月のかげに靡いて力なささうの塗り下駄のおと、村田の二階も原田の奥も憂きはお互ひの世におもふ事多し。」という一文で終わる。
ここで注目したいのは、この結びが二人の関係を何も進めないことだ。再会は逢瀬にならず、金を渡して別れるだけで終わる。しかも「村田の二階」と「原田の奥」を同じ「憂き」で並べてしまう。お関が選んだ安定と、録之助が堕ちた自由は、同じ世の苦さの両端に過ぎない、と読める。お関は帰る決意を固めた直後だから、この一文は決意をねぎらうのではなく、その決意の先にも救いはないと告げているように感じた。
忖度なしで見る十三夜の欠点・違和感:父の説得は本当に説得になっているか
父の説得が「理屈」であって「納得」ではない
上の後半、父は長い台詞でお関を諭す。「同じく不運に泣くほどならば原田の妻で大泣きに泣け」という言葉が象徴的で、要は、泣くなら夫の家で泣けということだ。根拠は、離縁すれば太郎に会えなくなること、弟の亥之助の昇給は原田の口利きのおかげであること、世間の奥様も楽な人ばかりではないこと、の三つだ。
どれも筋は通る。けれど、お関の訴えた「人格を否定され続ける日々」に対する答えが一つもない。父は夫を「利発」で「学者」と持ち上げ、我儘な人だと承知しながら、改善を求める手立ては示さない。お関が折れるのは納得したからというより、太郎の名を出されて抵抗する力が尽きたからに見える。読者の側に「ここで折れさせるのは酷だ」という感想が残るのは、おそらく作者の狙いどおりだろう。ただ、創作の立場から言えば、父の台詞が長すぎて、感情の山場が演説になってしまっている。ここは母の怒りの方がずっと生きていて、父の長広舌でその熱が冷めるのが惜しい。
原田勇が最後まで「見えない人」であること
夫は鬼だとお関は言うが、読者は原田本人の言動を一度も目にしない。出際に着物の揃え方が悪いと投げつけて出て行った、という報告があるだけだ。物語の核心を妻の一人称的な語りだけで支えるのは、一葉の語りの巧さで成立してはいるが、それでも都合のいい証言という印象は残る。
もし夫に一場面でも人間らしい顔が与えられていたら、お関が帰る決意はもっと複雑になったはずだ。「見せない」ことで、お関の孤立と鬱屈が際立つ効果はあるにせよ、この作品を「女性の苦しみの告発」として読むには、反対側の視点が空白すぎる。
録之助の語りが急に饒舌になる不自然さ
録之助は車を止めた直後まで言葉少なだったのに、お関に問われると、妻のこと、子のことまで一気に語る。「何で乳くさい子供の顔見て発心が出来ませう」と言い切り、その子が昨年の暮れにチフスで死んだと聞いたことまで、淡々と述べる。身の上話としては劇的だが、再会の驚きの直後にしては話が整いすぎている。
おかげで読者は録之助の転落の理由を理解できるが、その分、彼がお関をどう思っているのかは最後まで曖昧なままだ。「さのみは嬉しき様子も見えざりき」と、お関の目に映る冷たさだけが残る。余白として読めば美点になるが、単に書き込み不足と見ることもできる。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
- 句読点の少ない明治の文語文に、ゆっくり付き合える人。声に出して読むと意外に流れる
- 結婚や家族の「我慢」を、美談とも悲劇とも決めきれない物語として読みたい人
- 最後の一文のために、冒頭の一文から読み直したい人
逆に、はっきりした決着や救いを求める人には向かない。同じ一葉でも、少年少女の淡い時間を描いた「たけくらべ」や、遊郭の女の最期を描いた「にごりえ」と読み比べると、「十三夜」は事件がもっとも小さいのに、もっとも出口のない作品だとわかる。初めて一葉を読むなら「たけくらべ」から、そのあとで本作に進む順番をすすめる。


