新書太閤記 感想ネタバレ|11分冊の秀吉伝、完結しない結末

結論:秀吉を「凡人」として書き切った覚悟は本物。ただし通読には相当な体力と、脇道への寛容さがいる

吉川英治「新書太閤記」は、豊臣秀吉を英雄としてではなく、私たちと同じ血と愚かさを持った一人の日本人として描く、巨大な伝記小説だ。この「凡人の秀吉」という軸は最後までぶれず、そこは文句なしに評価できる。

一方で、青空文庫では全11分冊、1分冊だけで約19万字ある物量は、読者を選ぶ。しかも物語は秀吉の最期まで書かれない。大長編に付き合う覚悟のある人には滋養になるが、秀吉の一代記を手っ取り早く読みたい人には、遠回りの多い道だ。

なお、この記事は第一分冊の冒頭と、第十一分冊の終盤(結末)を実際に読んで書いている。全巻を均等に読んだわけではないので、中盤の個別の戦や事件の出来には踏み込まず、冒頭と結末から見える構造と姿勢を中心に評価する。

最小限のあらすじ

天文五年、尾張の貧しい村の藁屋根の下で、後の豊臣秀吉が生まれる。物語はそこから、織田信長の出現を経て、秀吉が天下人へ駆け上がる過程を追う。終盤の第十一分冊では、小牧・長久手の対峙のあと、上洛を拒み続ける徳川家康と、あの手この手で家康を引き出そうとする秀吉の駆け引きが中心になる。初出は「読売新聞」連載の「太閤記」(1939年1月1日〜1945年8月23日)と、1949年に地方紙へ載った「続太閤記」で、あわせて「新書太閤記」にまとめられた。

新書太閤記の魅力とは?「序」と冒頭に見える、凡人・秀吉という独自の視点

「序」で作者が宣言した、英雄にしない秀吉像

この作品でいちばん正直なのは、本編の前に置かれた「序」だと思う。吉川は、秀吉を「民衆のなかに伍してゆく英雄」と位置づけ、「かれは典型的な日本人だったから」と書く。さらに、従来の太閤記が秀吉を「ユーモラスと機智と功利主義」で描く同じ型ばかりだったと批判し、自分は「そういう逃げ方はしまい」と宣言する。

書き手の目で見ると、これは作品全体の設計図の公開だ。ここまで自分の方針を言い切る序は珍しく、読者は「秀吉の機知を楽しむ話」ではなく「秀吉という人間を正面から見る話」として読み始められる。吉川は同じ時代小説でも、「宮本武蔵」では求道の人を、「三国志」では群像を描いた。この作品は、その中間にある「庶民の目線の英雄譚」を狙った作だと位置づけると腑に落ちる。

赤ん坊の誕生から始める、体温のある書き出し

本編の書き出しは、史実の人物伝としては異例なほど肉体的だ。生まれた嬰児は「五年樽の梅干みたいに、赤くて皺だらけだった」。寒さで泣く力もなく、周囲は「死んで生れたか」と思う。ところが産湯から上げると突然呱々の声をあげ、大きな欠伸を一つする。

偉人の誕生に奇瑞を添える伝記の型を使いつつ、梅干しという身も蓋もない比喩で、神話ではなく生身の赤ん坊に引きずり下ろしている。「序」の宣言がそのまま第一場面で実行されており、方針と実作が一致している点は、素直に上手い。

秀吉と無関係に見える中国の場面から入る、視野の取り方

冒頭で、秀吉誕生のあとに置かれるのは、中国の浮梁(景徳鎮)で十二年陶器の技を学んだ五郎大夫(祥瑞)が帰国する夜の場面だ。現地で子をもうけた女性・梨琴が、日本の人柄を見抜いたうえで、子を父に託す長い台詞がある。ここは「情義に強く、武勇に長けて、しかも優美な国」という、日本人像を外から語らせる仕掛けになっている。

秀吉の物語に、いきなり別人の渡航譚を接続する構成は大胆だ。「信長出現以後の無数の星」まで書きたいという序の言葉どおり、主人公一人に絞らない群像劇を最初から宣言している。ただ、この大胆さが後の節で欠点にも反転するので、そこは後述する。

※ここから結末に触れます。

小牧・長久手のあと、戦わずに家康を動かそうとする秀吉

第十一分冊の終盤は、合戦ではなく交渉の物語だ。秀吉は長久手の一戦を「重大な黒星」と受け止めて軍を引き、以後は家康に上洛を迫る使者を何度も送る。織田信雄が説得に来ても、家康は生欠伸をかみ殺して聞き流し、織田長益と滝川雄利が来れば、翌朝には鷹狩りに出てしまう。二人が吉良の狩猟場まで追って必死に説くと、家康は「この上の使いは、無用じゃ」と突き放す。

ここで面白いのは、秀吉が怒るどころか、報告を聞いて何度も笑い出すことだ。「地蔵の顔も、三度という」と家康の癇癪を想像して楽しむ。力で押せない相手を、掌に乗せる過程そのものを遊んでいる。「凡人」を標榜する作品の秀吉が、実は並外れた余裕と根気を持つ人物として立ち上がる、ここが終盤の読みどころだ。

「巨鯨」の比喩で終わる最終場面の読み方

最終場面で、報告を終えた秀吉は女性たちに囲まれて寝所へ向かう。その小さな体について、使者二人には「巨鯨が、春の潮にのって、水と空の一線へ、模糊と、かくれて行ったように見えた」と描かれる。

交渉の失敗報告を受けたばかりの場面を、不安ではなく大きさの印象で閉じるのは、読者に「この男はまだ負けていない」と思わせる効果的な幕引きだ。一方で、序の言う「凡人」の秀吉と、この巨鯨の秀吉はかなり距離がある。どちらも秀吉だと受け止めるのが、この作品との付き合い方になる。

新書太閤記の欠点・違和感は?長すぎる構成と、完結しない終わり方への不満

主役が見えにくくなる群像構成と、脇道の多さ

先に触れた冒頭の五郎大夫と梨琴の場面は、文章としては美しい。しかし、物語の入口で数ページを費やして別人の話を始めるのは、秀吉の物語を読みに来た読者への最初の裏切りになりかねない。群像劇にする意図は序で説明されているが、その意図が読者に伝わるまでの距離が長すぎる。創作の立場から言えば、冒頭は主題への入口を絞り、脇道は主題が確立した後に開く方が親切だ。

この傾向は終盤にも見える。小牧・長久手後の緊迫した外交の最中に、物語は秀吉が摩耶姫や茶々、絵師の弟子・於通のもとを巡る場面へ移る。家康との緊張と並行して、一国の主の私生活の描写に紙幅が割かれるため、物語の速度が落ちる。人物の厚みを出す意図は理解できるが、外交の緊迫が高まった直後に女性遍歴の説明が長く続く構成は、少なくとも私には中だるみに感じられた。

「禁園の賊」の場面に見える、秀吉の女性観の説明過多

終盤の章「禁園の賊」は、秀吉の好色を弁護するように長い地の文が続く。女好きは単純な生理ではない、少女の純情と向き合うと胸の血が高鳴る、人間をより美しく見ていたかった、といった具合だ。

問題は、これが場面ではなく語り手の解説で処理されている点にある。秀吉が於通の描いた花鳥画を手ずから巻き、「もろうて、帰るぞ」と持ち帰る一瞬の動作は、人物の癖を十分に見せている。そこに「かれの粋狂は底が知れない」以降の長い説明が重なり、せっかくの場面が解釈で塗りつぶされる。いまの読者の感覚では、十五歳の少女を「未開花のつぼみ」として並べる語り方への抵抗感も大きい。時代の産物と割り切るにしても、作者がこの描写を魅力として差し出している以上、現代の読者が引っかかる点としては率直に書いておく必要がある。

秀吉の最期まで書かれない結末と、連載の事情

序で吉川自身が認めているとおり、この作品は秀吉の大往生まで書けていない。第十一分冊も、家康が上洛を拒み続け、秀吉が「近々のまに、そのすね者を秀吉の膝に上げて」と笑う場面で終わる。物語の終わりとしては、決着の手前で幕が下りる形だ。

連載は新聞紙上で、戦時下の1945年8月に一度終わり、1949年に続編が別の新聞に載った経緯がある(初出欄の記載による)。事情を差し引いても、読者が11分冊を読み通した先に待つのは、秀吉の栄華の頂点でも落日でもなく、家康との駆け引きの途中だ。秀吉の一代記を期待して読み始めた人には、はっきりした不完全燃焼が残る。

ただ、これは序で「私はむしろ、彼の苦難時代が好きである」と宣言した作者の選択でもあり、騙し討ちではない。欠点であるのは、読む前にこの事実を知らされないと、大きな物量を費やして読んだ読者が損をした気分になるからだ。この記事でその点を先に書いておく。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

  • 秀吉を「出世物語の成功者」ではなく、人間としてじっくり読みたい人
  • 信長、家康など周辺人物まで含めた群像として戦国を読みたい人
  • 長編の中の寄り道や、語り手の解説をおおらかに楽しめる人
  • 青空文庫で無料で、長い時間をかけて読める環境のある人

逆に、秀吉の栄達から死までを一冊で味わいたい人、テンポの速い歴史小説を求める人には向かない。吉川の作品で入口を選ぶなら、まず「宮本武蔵」か「三国志」で文体と語り口に慣れてから、この大作に進むのが現実的だ。全部を読む必要はなく、「序」と冒頭、それに家康との駆け引きが描かれる巻から拾い読みしても、作品の姿勢はつかめる。