結論:冒頭の一行で勝負が決まる、二千字の劇薬。ただし「論証」としては穴だらけ
「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」という一行は、日本語で書かれた小説の書き出しの中でも屈指の強さを持つ。青空文庫の本文で数えて約二千二百字しかない短さの中に、この一行の衝撃を最後まで保つ力がある。
ただし、語り手の「信じていいことなんだよ」という断言は、読み返すほど理屈としては空回りしている。納得させる小説ではなく、感覚を押し付ける小説だと割り切れる人向けで、桜を素直に愛でたい人には毒になる。
最小限のあらすじ
語り手の「俺」が、聞き手の「おまえ」に向かって話し続ける一人語りの短編。満開の桜の美しさが信じられず、二三日不安で憂鬱だった「俺」は、やっとその理由に気づいたと言う。桜があれほど咲くのは、根が樹の下の屍体の液を吸っているからだ。そう想像すると、不安は消えて心が和んだ、というのが全体の筋になる。
桜の樹の下には屍体が埋まっているのはなぜ?独自の深掘り:語り口と比喩の仕掛け
「おまえ」に語りかける形式が、読者を共犯にする
この作品の最大の発明は、内容より話法にある。語り手は終始「おまえ」に向かって話し、途中で「おまえは何をそう苦しそうな顔をしているのだ」と、相手の反応まで先回りして書き込む。「おまえは腋の下を拭いているね。冷汗が出るのか」という一文も同じだ。
読者は聞き手の席に座らされ、自分の顔色まで語り手に見られているような気分になる。屍体の話を聞かされた側が冷汗をかく、という反応を作中で先に書いてしまうので、こちらは「いや、そんなことはない」と否定する余地すら奪われる。短い作品でこの圧を作る手際は、小説の技術として素直にうまい。
屍体の描写が「美しい」ことが、いちばん気持ち悪い
屍体の描写は、腐乱して蛆が湧き、臭いという即物的な書き方で終わらない。「それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている」と、突然きれいな比喩が混ざる。桜の根は「貪婪な蛸」のように屍体を抱きかかえ、その液が維管束を「夢のようにあがってゆく」と続く。
腐敗と透明さ、グロテスクと幻想が一文の中で同居しているのがこの小説の核心だ。気持ち悪いものを気持ち悪く書くのは簡単だが、気持ち悪いものを美しい語彙で運ぶと、読者の感覚の置き場がなくなる。語り手が「美しい透視術じゃないか」と言うとき、読者は嫌悪と見惚れる気持ちの両方を同時に抱える。ここが一番の読みどころだと思う。
薄羽かげろうの墓場が、論の「証拠」として機能している
中盤の薄羽かげろうの場面は、屍体の想像を単なる妄想にしないための、唯一の「現実の根拠」だ。語り手は渓で、水しぶきの中から生まれて結婚の舞を踊る薄羽かげろうを見る。そのあと、乾いた磧の水溜りで、産卵を終えた何万匹もの屍体が重なり、油のような光彩を流しているのを見つける。
誕生と交尾の華やかさのすぐ隣に墓場がある、という構図が先に示されるから、「桜の花の下にも屍体がある」という飛躍が、読者の頭の中でも一度は筋が通る。語り手が「胸が衝かれるような気がした」と書いたあとに「残忍なよろこび」を認める流れも、告白として生々しい。ちなみに、桜と死を結びつけたこの発想は、後の坂口安吾の桜の森の満開の下と並べて読むと、恐怖の置き方の違いが見えて面白い。
※ここから結末に触れます。
結末の「花見の酒」は、救いなのか敗北なのか
最後の段落は、屍体の幻想が頭から離れなくなったと述べたあと、こう結ばれる。「今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする。」
この結びは二通りに読める。ひとつは、美しさの正体を見抜いたことで、ようやく桜と対等になれたという「勝利」の読み。もうひとつは、屍体の想像なしには桜を楽しめなくなった、という「病」の読みだ。語り手は同じ段落で、屍体の空想が「どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない」と認めている。つまり彼は、不安を解消したのではなく、不安を受け入れる形で居場所を得たにすぎない。
「同じ権利で」という言い回しも引っかかる。村人たちは屍体のことなど考えずに酒を飲んでおり、語り手はその無邪気さを、屍体という通行料を払うことでようやく買い取った。羨望と軽蔑の入り混じった、この嫌なニュアンスは、結末の一文に確かに残っている。
桜の樹の下にはの感想で見えてくる、忖度なしの欠点・違和感
「信じていいこと」の根拠が、最後まで感覚でしかない
創作者の目で見ると、冒頭の断言は論理として成立していない。語り手は「桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられない」から屍体を想像した、と言うが、これは美しさが信じられないから別の何かを足した、というだけで、屍体でなければならない理由は示されない。薄羽かげろうの例も、死が生のすぐそばにあることを示すだけで、桜の根が屍体を吸うことの根拠にはならない。
もちろん詩として読めば、論理の穴は問題にならない。しかし本文が「これは信じていいことなんだよ」と、わざわざ論証の形を取っている以上、その形の弱さは欠点として指摘しておくべきだ。散文詩だと割り切れる読者は気にならないが、説得力のある理屈を期待すると肩透かしを食う。
冒頭の剃刀の刃の話が、回収されないまま放置される
二段落目で語り手は、毎晩帰り道に「安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のように思い浮かんで来る」ことを「それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない」と、桜の話に結びつける。この謎めいた導入は印象的だが、その後ほとんど触れられない。
刃の閃きと屍体の幻想が同じ「憂鬱の完成」という場所から来ているのだ、と読者が自分で補うしかない。補えば味わい深いが、補えなければ冒頭の不気味な小道具だけが宙に浮く。短い作品だからこそ、一度出した小道具の回収は、もう一歩丁寧にしてほしかった。
後半の「憂鬱の完成」の理屈が、前半の勢いを削ぐ
冒頭から屍体の描写までは、息もつかせぬ速度で進む。ところが薄羽かげろうの場面のあと、語り手は自分の心理を解説し始める。「俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る」といった部分だ。
作者の主張がここまで直接的に語られると、前半で屍体の想像に引き込まれていた読者は、一歩引いて語り手を観察する位置に戻される。もちろん、語り手の人物像を固める意味はあるが、「腋の下」や「精液のよう」という生理的な比喩と、心理の説明が並ぶ箇所は、冷汗の演出だけで済ませたほうが切れ味が上だったはずだ。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
短くて強い言葉の連打に身を委ねられる人、散文詩に近い作品を読むのが苦にならない人には、これほど安く手に入る劇薬はない。二千字ほどなので、数分で読み終わり、すぐ二度目に入れる。二度目は「おまえ」が誰なのか、語り手は本当に誰かに話しているのかを考えながら読むと、また違う顔が見える。
逆に、起承転結のある物語や、論理で納得できる主張を求める人には向かない。梶井基次郎が初めてなら、まず同じ作者の檸檬から入るのも手だ。そこで梶井の「憂鬱」の質感に慣れてから、この一篇に戻ってくると、屍体の幻想がより鋭く刺さる。

