結論:風景の目は一級品。ただし「事件」を持たない六枚の絵は、読む側に忍耐を求める
梶井基次郎の「城のある町にて」は、『檸檬』のような一撃の鋭さを期待すると肩透かしを食う。妹を亡くした青年が姉の嫁ぎ先で夏を過ごす、ただそれだけの話で、筋らしい筋はない。その代わり、城跡から見下ろす町と入江の描写は、梶井の中でも屈指の精度だ。傑作かと言われれば、部分的には傑作、全体では散漫な佳作と答える。短編に慣れた読者が、梶井の入口として最初に手に取る作品ではない。
最小限のあらすじ
妹を「可愛い盛り」で亡くした峻は、五七日も過ぎないうちに家を出て、海沿いの町に嫁いだ姉の家へやって来る。目的は、妹のことを落ち着いて考えること。彼は毎日のように町を見下ろす城跡へ登り、蝉や子供や入江を眺める。姉夫婦と姪の勝子、義兄の妹の信子と過ごすうちに夏が終わり、信子が寄宿舎へ帰る前夜、峻は夕立を待っている。
「城のある町にて」の魅力:入江の謎と手品の場面を読み解く
「なにかある」と言い切れない入江の描写
この作品の核は、城跡から見える遠い入江だ。峻はそこに「変に心が惹かれた」のに、理由が分からない。梶井はここで、美しい風景をただ褒めない。「なにかある。ほんとうになにかがそこにある。」と書いたあとで、口に出せば空々しくなる、とすぐ引っ込める。憧憬と名づけてみて、「まだなにか」と否定し、コンスタブルの絵を思い出してもやはり違う。名づけようとして名づけきれない感覚そのものを描いているのが、梶井のうまさだ。
読者はその正体を最後まで教えてもらえない。ここを「謎を放り出した」と取るか、「正体がないからこそ憧れなのだ」と取るかで、この作品の評価はほぼ決まる。私は後者で読んだ。入江を何かの象徴に回収した瞬間、描写の価値が死ぬからだ。
蝉の鳴き声を「文法の語尾の変化」と聞く耳
つくつく法師の鳴き声を「文法の語尾の変化をやっているようだな」と聞き、「オーシ、チュクチュク」が入れ替わって「スットコチーヨ」から「ジー」に終わるまでを書き写す箇所がある。さらに蝉の腹の伸縮を「エンジンのある部分のような正確さ」と見る。小さな生き物への視線の近さと、機械に喩える冷たさが同居していて、梶井の観察の癖がよく出ている。風景を見ているのに、感傷に流れない。この乾いた目が、のちの『檸檬』や「冬の蠅」にも通じる。
印度人の手品と、花火の「Flora」
全体の中で最も構成がきいているのは「手品と花火」の節だ。芝居小屋で、印度人の手品師が舞台に上げた男の手を嘲り、客が笑う。峻は「堪らない」と不愉快になる。ところがそこで、城で見た遠い花火と、少年が「花は」と訊かれて「フロラ」と答えた声を思い出す。そして「その子供といい、そのパノラマといい、どんな手品師も敵わないような立派な手品だったような気がした」と気持ちを洗う。
不快な場面を「非人情に見る」ことで面白く見直す、という峻の癖が、ここで実演される。舞台の火吹きに「怪しげな美しさ」さえ見出す流れは、短い中で心の動きを一周させていて見事だ。
国定教科書の記憶に重なる井戸の場面
「昼と夜」の節で、峻は城の崖の蔭の井戸で洗濯する二人の女を見て、小学校の唱歌や国定教科書の挿画を思い出す。「単純で、平明で、健康な世界」が目の前にある。そして「そんな国定教科書風な感傷のなかに、彼は彼の営むべき生活が示唆されたような気がした」と書かれる。妹の死から逃れてきた青年が、ようやく生活の側へ目を向けかける場面で、この作品の感情の山場の一つだ。
忖度なしの欠点・違和感:「城のある町にて」がつまらないと言われる理由
六つの節が、積み重ならずに並んでいるだけ
構成は「ある午後」「手品と花火」「病気」「勝子」「昼と夜」「雨」の六節。それぞれに絵はあるが、前の節が次の節に効いてこない。たとえば「病気」の節で、義兄が語る北牟婁での話(勝子が川を流れ、祖母がぼけていく)は、それだけで一つの短編になるほど力がある。しかし峻の側にそれが何かを動かすわけではなく、「惨酷な気がした」と感想が置かれて終わる。挿話が豊富な分、峻の物語としては積み上がらない。書き手として言えば、これは素材を削りきれていない状態だ。
肝心の「妹の死」が、途中でほぼ消える
冒頭で、妹を落ち着いて考えたいから来た、と動機が示される。ところが中盤以降、妹の話はほとんど出てこない。代わりに前に出るのが、信子への淡い気持ちと、勝子の観察だ。妹の喪失が癒えていく過程なのか、別のものに目を移して忘れていく過程なのか、作品は踏み込まない。最後の夕立を待つ場面に、冒頭の喪失と響き合うものがあるかというと、私には弱く読めた。動機を最初に出した以上、終わりでそれを回収してほしかった。
信子の描写と方言の会話:人物と言葉が読みの流れを止める
信子は、素直で、琴が評判で、植物標本を作る娘として描かれ、峻はそれを「好もしい」と見る。ただ、描かれ方は外側からの列挙に近い。峻が彼女をどう見ているかは分かるのに、彼女自身の声がほとんど立ち上がらない。終盤の「雨に濡れた着物から身体つきが髣髴とする」場面は官能の気配があって良いのに、そこへ至るまでの積み上げが薄いので、唐突に感じる。
もう一つ気になるのは会話の長さだ。家族の会話は紀州の言葉で書かれ、しかも「朝鮮閣」と「松仙閣」の聞き違い遊びのような、小さな挿話が長く続く。生活の臭いを出す狙いは分かる。ただ、風景描写の緊張から会話に移るたび、読者の集中が一度切れる。ここは、梶井が実際に聞いた言葉の面白さを残したかったのだろうが、作品の主題に必要な分量を超えている。
※ここから結末に触れます。
結末の弱さ:夕立を「待つ」だけで終わる意味
終わりは、信子が寄宿舎へ帰る前の夜。峻は眠れないまま雨戸を繰り、夕立の中で、物干竿にかかった信子のゆかたを見て「不思議なくらい信子の身体つきが髣髴とした」。そして最後の一文はこうだ。
「彼はまだ熱い額を感じながら、城を越えてもう一つ夕立が来るのを待っていた。」
何も解決せず、何も告げず、峻はまだ何かを待っている。この終わり方は、入江の謎を謎のまま置いた冒頭の姿勢と地続きだ。その意味では一貫している。ただ、「待っている」という形で閉じたぶん、冒頭の妹の死も、信子への気持ちも、読者に預けられたままになる。余韻と取るか、投げ出しと取るかは、先に書いた「妹の死が消える」問題と直結している。私は余韻として美しいと思う一方、構成としては借りを返していないと感じた。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
向くのは、筋よりも描写の精度を味わえる人、そして夏の終わりの空気を文章で浴びたい人だ。入江、蝉、花火、夕立と、感覚の細部を拾うのが好きなら、青空文庫で約1万9千字の長さは負担にならない。梶井のほかの作品を読んでいるなら、観察の癖がどこから来たのかを見る楽しみもある。
向かないのは、一つの事件と結末の落差で読ませる小説を求める人。梶井の初読なら、まず梶井基次郎「檸檬」の感想で文体に触れ、続けて「桜の樹の下には」、病と死の気配が濃い「冬の蠅」へ進んだほうが、この作品の穏やかさの意味が分かる。「城のある町にて」は、梶井の中でいちばん長く、いちばん静かな一本として、その後に読むのがちょうどいい。



