ヘンゼルとグレーテル感想ネタバレ|母だけ罰される物語の座りの悪さ

結論:前半の「反復」は見事。後半は魔女退治の段取りで、結末は座りが悪い

グリム兄弟の「ヘンゼルとグレーテル」は、子供を捨てる親という最悪の出発点を、わずか二度の置き去りで読者の腹に落とす、構成の締まった昔話だ。お菓子の家に入ってからは典型的な魔女退治に落ち着き、驚きは薄い。何より、結末で「おかみさん」だけが理由もなく死んでいる処理は、物語の道徳として雑で、劇薬というより消化不良に近い。

本記事は青空文庫で読める楠山正雄訳(『世界おとぎ文庫(グリム篇)森の小人』底本)を読み直した上で、全体を通して書いている。

最小限のあらすじ

大飢饉の年、貧しい木こりは、おかみさんに迫られて、子供のヘンゼルとグレーテルを森へ置き去りにすることに同意してしまう。ヘンゼルは小砂利を道に落として一度は家に戻るが、二度目はパンくずを撒いて鳥に食われ、二人は森で迷う。たどり着いたお菓子の家の主は、子供を太らせて食う魔女だった。二人は魔女を倒し、宝石を持って家に帰る。

ヘンゼルとグレーテルの置き去りはなぜ二回あるのか:反復の構造を読む

小砂利とパンくずの対比が作る、読者の安心と裏切り

この話の最大の技術は、置き去りを二回やることだ。一回目、ヘンゼルは「小砂利」を落として帰り道を作り、「ぴかぴか光って、路しるべ」になる。読者は「賢い子だ、大丈夫だ」と安心する。二回目は母が戸に錠をおろし、ヘンゼルは小砂利を拾いに出られない。代わりに撒いたパンくずは、鳥がみんなついばんで消える。一回目の成功を丁寧に見せておいて、二回目で同じ手が崩れるから、森の迷子が重く響く。

書き手の目で見ると、この「成功した手段を先に見せ、封じてから奪う」順序は、サスペンスの最小単位として今読んでも使える。説明を削ぎ落とした短い文で、手の内を二度見せるだけ。昔話の語りの経済性がよく出ている。

お菓子の家はなぜ子供を捕まえられるのか:誘惑の設計

お菓子の家の描写は、「パンでできていて、屋根はお菓子でふいてありました。おまけに、窓はぴかぴかするお砂糖でした」と、素材を並べるだけで済ませている。飢えて三日歩いた子供にとって、これは景色ではなく食べ物そのものだ。罠の設計は、腹を空かせた状態を作る前半の置き去りと、完全に接続している。

面白いのは、魔女が武力で捕まえず、ごちそうとベッドで迎えることだ。ヘンゼルとグレーテルは「天国にでも来ているような気がしていました」と書かれる。ここで語り手が「ほんのうわべだけ、こんなにしんせつらしくしてみせた」と種明かしを先にしてしまうのは、読者に二人より優位に立たせ、ハラハラを持続させる語りの手つきだ。ただ、後述するように、この親切な顔は一場面しか持たない。

骨を差し出す場面とかまどの場面:知恵の小さな連打

魔女は目が悪く、ヘンゼルは指の代わりに「ほそっこい骨」を出す。かまどでは、グレーテルが入り方が分からないふりをして魔女に実演させ、背中を押す。どちらも、力ではなく、相手の弱点を突く子供の知恵で勝つ作りだ。この二つが「小砂利」の知恵の延長にあることは、見落とさないほうがいい。

ヘンゼルとグレーテルの欠点:魔女退治と「おかみさんの死」の違和感

※ここから結末に触れます。

おかみさんだけが死ぬ結末は、道徳として成立しているのか

最大の違和感は結末だ。二人が帰ると、本文はあっさりと「おかみさんも死んでしまっていました」と書く。いつ、なぜ死んだのか、説明はない。魔女は焼かれて「罰あたり」と呼ばれ、因果応報が明確だが、母の死は誰の手にも罰にもなっていない。置き去りを言い出した張本人が、物語の外で勝手に退場する。

これは構成上のご都合主義だ。宝石を持って帰った子供が、母と向き合う場面が書かれないため、「家族の再統合」というゴールが、障害を取り除いただけの安易なものになる。親に捨てられた子供の物語で、いちばん読みたい対面を、作者が避けた印象が残る。

父親の造形:一度は反対し、あっさり折れる弱さを誰も裁かない

父の木こりは、最初は「そりゃあ、おめえ、いけねえよ」と反対する。だが、母にまくしたてられて折れ、二度目はもう反対もしない。本文は彼に「心配で心配でならなかった」と同情的で、帰還後も、父は「ただの一ときでも、笑える時がなかった」人として迎え入れられる。

実際に子供を連れて森へ行き、置き去りにしたのは父自身だ。にもかかわらず物語は、責任を母に集中させ、父を無罪放免にする。弱い父を許す構造は、昔話の語り手が置かれた時代の都合を感じさせるが、現代の読者には、悪役の配分が偏って見える。ここが、この話の道徳が座りの悪い最大の理由だと思う。

魔女の動機の薄さと、グレーテルの「泣く」場面の落差

魔女は「子供を煮て食うのがお祝い日」という、動機の説明だけで成立する悪役だ。人間的な厚みはなく、赤い目、鼻が利く、遠目が利かない、という特徴の列挙で終わる。ただの機能としての敵だから、倒しても「やった」という爽快感以外は残らない。

一方で、グレーテルが泣きながら叫ぶ「いっそ森の中で、もうじゅうにくわれたほうが、よかったわ。それだと、かえってふたりいっしょに死ねたのだもの。」は、本作でいちばん人間的な台詞だ。この絶望の深さに比べ、直後のかまどの場面はあまりに手際よく、感情の落差を回収しないまま勝利へ進む。台詞の重さと、結果の軽さが釣り合っていない。

なお、宝石を見つけたヘンゼルの「こりゃ、小砂利よりずっとましだよ」は、小砂利の伏線を拾った気の利いた台詞だが、これで二人の苦難が「金で報われる」話に着地してしまうのも、評価が割れるところだ。

語りの結びが、物語の余韻を茶化してしまう

最後の一文も好みが分かれる。親子三人が仲良く暮らしたと書いた直後、語り手は「わたくしの話もこれで市がさかえました」と軽く幕を引き、小ねずみを捕まえて毛皮のずきんを作れと冗談で締める。口承の名残としては愛嬌があるが、飢え、遺棄、人食いまで書いた後の余韻をここで笑いに逃がすのは、読後に残るはずの重さを自分で薄める手際だと感じた。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

  • 物語の「反復と変奏」の作りを、短い分量で学びたい書き手。置き去りの二回構造は、そのまま教材になる
  • 昔話の道徳の座りの悪さや、親の責任の描かれ方に興味がある人。感想が割れるぶん、語る材料は多い
  • 子供に読み聞かせる前に、楠山正雄訳の語り口(「ごちそうになろうよ」といった口調)を確かめたい人

逆に、魔女との心理戦や、親子の和解のドラマを期待する人には向かない。全体で一万字ほどの短い作品だから、気軽に読み切れるのが救いだ。同じ作家の昔話では、グリム「赤ずきん」感想ネタバレ|教訓が雑な理由も、教訓の処理という点で並べて読むと面白い。