風博士感想ネタバレ|蛸博士の禿頭と風になる結末を辛口評価

結論:最初の一ページは爆笑、ただし笑いの種類は最後まで一つだけ

坂口安吾「風博士」は、青空文庫の表示で約5,900字の短編だ。冒頭の演説の勢いと、ほら話を真顔で押し切る図太さは一級品で、数ページ読めば「これは好きか嫌いか」が決まる。ただし、面白さの仕掛けは「大仰な言葉で馬鹿馬鹿しいことを断言する」の一本きり。安吾の長めの作品に期待するような人間の凄みは、ここにはほとんどない。

劇薬というより、怪しい香辛料に近い。口に合う人には忘れられない一編になり、合わない人には最初の段落で「何を読まされているのか」と投げ出される。読む価値があるかどうかは、冒頭の数百字で判断してよい。

最小限のあらすじ

語り手の「僕」は、行方不明になった偉大なる風博士と共謀し、遺書を偽造して蛸博士の名誉を傷つけようとしたと疑われている。そこで「僕」は、風博士の遺書を読者に示し、さらに博士の最期を目撃者として語る。遺書の主張は、宿敵の蛸博士は禿頭で、鬘で隠しているというもの。結婚式の日、博士は部屋を飛び出して姿を消し、「僕」は博士が風になったのだと結論づける。

「風博士」の遺書と目撃談が笑える理由:独自の深掘り

冒頭の「御存じない」連打が読者を共犯にする

書き出しは「諸君は、東京市某町某番地なる風博士の邸宅を御存じであろう乎?」という問いで、答えは「御存じない。」と、語り手が勝手に出してしまう。しかも「それは大変残念である」と嘆く。読者は何も知らないまま、知らないことを責められ、同情され、先へ進まされる。論理は成立していないのに、演説の調子だけは崩れない。ここで笑えた人は、最後まで楽しめる。

蛸博士の「禿頭」と鬘をめぐる決闘のくだらなさ

遺書の中身は、冷静に要約するとかなり情けない。宿敵は禿頭で、鬘を被っている。それが「蛸」だという。風博士は夜中に忍び込んで鬘を奪うが、翌日には相手は別の鬘を用意していた、と嘆く。これだけの話を「彼こそ憎むべき蛸である」「打倒蛸!」と国家の大事のように書くので、落差で笑いが生まれる。バスクと日本の類似から義経が成吉思汗になったという珍説も、学者の論争を茶化す小道具としてよくできている。

第二部の文体の切り替えと「周章て者」の描写

遺書が漢文調の絶叫なら、後半の目撃談は、動きの速さを誇張する描写で攻める。博士はコップを呑み込み、時計は十三時を打ち、椅子は癇癪を鳴らす。「部屋の西南端」の長椅子にいたはずが、次の瞬間には「東北端」にいるという書き方は、漫画のコマ割りに近い。同じ「誇張」でも、前半は言葉の暴走、後半は物理の暴走と種類を変えている。この切り替えは、短い作品の中で飽きさせない工夫として評価できる。

「証明」の形だけを借りた語りが、読者の判断を奪う

この作品の語りは、遺書という「証拠」を提示し、続いて目撃者が「証言」するという、裁判のような手順を踏んでいる。形式だけは堅苦しいほど整っているのに、中身は鬘と駄洒落と珍説だ。書き手の目で見ると、これは笑いの設計として筋がいい。内容が荒唐無稽であるほど、形式の真面目さが際立ち、読者は「疑うべきなのに、勢いに押されて頷いてしまう」という妙な状態に置かれる。語り手が冒頭で自分の疑いを晴らすと言いながら、読み進めるほど怪しくなっていく点も、この形式とよく噛み合っている。

安吾の別の側面を読みたいなら、同じ作家の夜長姫と耳男の感想や桜の森の満開の下の感想と読み比べると、同じ作家とは思えない振れ幅が分かる。

※ここから結末に触れます。

風になった結末は何を意味するのか:忖度なしの欠点・違和感

結末の「インフルエンザ」は落ちとして軽すぎる

博士は消え、「僕」は「偉大なる博士は風となったのである」と断言する。その根拠は「姿が見えないではない乎」という循環論法で、最後に「科学的根拠」として、蛸博士が同じ瞬間にインフルエンザにかかったことが添えられる。風邪と風を掛けた駄洒落に近い落ちで、一発の切れ味はある。ただ、ここまで膨らませた怒涛の演説の着地としては、小さい。ほら話の山を築いたあとに、軽い地口で幕を引くので、読後に残るのは「うまいこと言った」という感触だけだ。

遺書と目撃談のずれが、効果ではなく粗に見える

遺書では、風博士は蛸博士に妻を寝取られ、その妻はバスク生まれだったという。ところが目撃談の側では、博士は結婚式の当日に姿を消し、花嫁は十七歳の花売りの少女だ。二つの語りが食い違うこと自体は、信用ならない語り手を狙った仕掛けと読める。しかし、食い違いが何かを暴くところまで進まない。「僕」の語りが嘘なのか、博士の遺書が妄想なのか、読者が判断する足場がなく、ずれは謎として機能せず、ただ放り出されている。

同じ語尾と型の反復で、後半は笑いが痩せる

「然り」「ああ諸君」「実に」を重ねる文体は、最初は新鮮だ。だが遺書の後半あたりから同じ型の繰り返しになり、笑いの出力が一定のまま続く。「バナナの皮」や「妻の寝取り」といった事件が起きても、語りの温度が変わらないので、事件の重さが伝わらない。この作品の笑いは、一回目の驚きに多くを頼っている。約6千字でちょうど終わるのは、これ以上長いと持たないからだろう。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

  • 大仰な演説調や、真顔で言い張るほら話が好きな人
  • 安吾の代表作の前に、初期の実験的な一編を短時間で読んでおきたい人
  • 人物の心理や物語の深みより、文体の勢いそのものを味わいたい人

逆に、感情移入できる人物や、結末で胸に残る何かを求める人には向かない。人物はみな記号として動くだけで、博士の孤独や怒りに寄り添う余地はほぼない。物語の厚みを求めて読むと、肩透かしになる。

読み方としては、黙読より音読がおすすめだ。この作品の笑いは、息継ぎの位置や語尾の勢いに宿っているので、声に出すと間の可笑しさがはっきり分かる。そのうえで気に入ったら、上で挙げた安吾の長めの作品へ進むと、同じ作家の振れ幅をそのまま体験できる。

まず冒頭の一段落を声に出して読み、笑えたら全編へ、そうでなければ別の安吾作品へ進むのがいい。初出は1931年6月の「青い馬」第二号。短い作品なので、合わなくても失うのは十数分だ。