結論:観察の目は確か。ただし「小説」と呼ぶには、何も起きなさすぎる
伊藤左千夫「水籠」は、洪水で家の中まで水が入った一家の三日間ほどを描いた、青空文庫の表示で約5,100字の掌編だ。『野菊の墓』のような悲恋を期待して開くと、肩すかしを食う。人は死なず、誰も泣かず、物語は動かない。
その代わりに残るのは、水に閉じ込められた暮らしの手触りである。四畳の仮床、腰巻きを濡らして火種を拾う日課、水位を垣根の竹で測る子供。生活の細部は鮮やかだが、それを束ねる筋が弱い。随筆として読めば佳品、短編小説として読めば未完成。それが私の評価だ。
最小限のあらすじ
語り手の「予」の家は出水で床上まで浸かり、郵便も新聞も途絶えて三日がたつ。一家は台所の隣に桶や戸板で組んだ四畳の仮床に、夫婦と子供と下女の六人で暮らしている。食事は兄の家から届く。水が少し引いた日の夕方、知人の半四郎が飯櫃を運んでくる。夜、幼い木綿子が眠り、虫と蛙の声が聞こえて終わる。
「水籠」の読みどころは? 水害の日常を描く観察眼の分析
冒頭の郵便舟が、この作品の視点を決めている
書き出しは、筏の悪戯だと思って叱りつけようと格子をのぞくと、それが郵便配達の舟だった、という小さな取り違えである。ここで読者は「この語り手は、水の上の出来事を一歩引いて眺める人だ」と了解する。そのあとに続く、赤筋の小旗を挿した舟が薄黒い濁り水をゆらゆら漕いでいく描写は、色と速度まで見えるように書かれている。災害の描写を、絶叫ではなく遅さで伝えている点が巧い。
「水難は家の病気」という比喩と、生活の細部
語り手は自分の境遇を観察し、「人間のからだでいえば病気じゃ、火難が家の死であらば水難は家の病気じゃ」と言う。家を一個の身体に見立てるこの発想が、作品全体の軸になっている。水が引くと「病気も今日はやや良好」と、同じ比喩が続く。
細部も具体的だ。茶を一杯飲むだけで、火の材料を拾いに担当者が腰巻き一つで水に降りる。一日に三度は降りるので、天気が悪ければ茶は「奢り」になる。下女の「今日は腰巻きを五へん換えました」という愚痴まで拾うあたり、災害を生活の単位に翻訳する力がある。
鰻の挿話に見える、悲惨の中の笑いの置き方
水が一寸五分引いたと報告する娘のお妙が、垣根の杭の脇で大きな鰻が口を出して水を飲んでいた、と話す。おふじが米ざるを持って降りるとすぐ引っ込んでしまった、という顛末に、語り手は「鰻が火を起こしたわけじゃないか」と冗談を返し、木綿子までが人まねで高笑いする。
この場面は、会話の調子が一番生きている。父の「蒲焼にしたら定めて五人でたべ切れない」という軽口も、子供の「うそでないよ」も、そのまま聞こえる。ただ、これが作品中で最も生き生きした箇所だという事実は、後で欠点の話につながる。
「水籠」の欠点・違和感:事件がなく、幼児の賛美も観念的すぎる
筋がなく、三日間のどこを切っても同じ
※ここから結末に触れます。
結末は、木綿子が眠り、窓先で枝蛙が鳴き、壁の透き間でこおろぎが鳴く、という場面である。事件の解決も心境の変化もない。創作する側から言えば、これが一番痛い。冒頭の郵便舟から半四郎の来訪、夕食、就寝まで、時間は流れても状況は動かない。水位が「少し引いた」ことだけが唯一の前進だが、それは語り手が何かをして得た結果ではなく、天候任せである。主人公に課題がないので、読者が先を知りたくなる理由が最後までできない。短編に必要な「何が変わったか」が、この作品には書かれていない。
「飢えも寒さもない」立場が、悲惨さを薄くする
語り手は半四郎に「飢えと寒さとの憂いがないだけ、まず結構な方です」と言う。実際、食事は兄の家から届き、水道の水まで牛乳鑵で運ばれる。夕食にはビールを抜かせている。助けのある家だから、「人間もこれだけ装飾をはがれるとよほど奇怪なものですぞ。この上に寒さに迫られ飢えに追われたら全く動物以下じゃな」と語られても、それは仮定の話にとどまる。向島のほうがひどい、綾瀬川の土手が切れたらしい、と半四郎が伝える被害の本体は、すべて他所の出来事として通り過ぎてしまう。
「余裕のある観察者の水害記」であることは、この作品の味でもある。だが、災害の悲惨さに向き合う作品ではないことは、読む前に承知しておくべきだ。
木綿子の賛美が、急に観念の言葉になる
夕食の場面で、語り手は幼い木綿子を「わが身の存在すら知らない絶対無我の幼児は、真に不思議な力がある」と持ち上げ、「天を活かし地を活かし人をも活かす」とまで書く。さらに「人を殺す力も持ってる」と続け、水に落ちたら自分は精神的に死ぬ、と言う。
前半の、鰻の話や腰巻きの愚痴で見せた具体性の高さと比べると、ここだけ急に抽象的で大げさになる。「あぶないてば木綿ちゃん」が会食中に十度繰り返された、という数字のほうが、よほど幼児の力を伝えている。読者に伝わっているものを、語り手が理屈で言い直して重くしてしまった形だ。
最後の「寂しい声」が、愉快な晩餐と噛み合わない
語り手は「一切の過去を忘れてただその現在を常と観ずれば、いかなる境地にも楽しみは漂うている」と言い、晩餐を愉快だと断じる。それなのに最後の一文では、蛙とこおろぎに「彼らは何を感じて寂しい声を鳴くのか」と問うて終わる。
寂しさと愉快さの併存を狙った余韻なのだろうが、問いが唐突で、答えを引き受ける人物も場面もない。夕方の「寂しみ」が一日の終わりに戻ってきただけにも見え、余韻というより、書き終える場所が見つからなかったように感じる。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
- 『野菊の墓』の左千夫とは別の、語り手が自分を面白がる文章を読んでみたい人
- 災害時の暮らしの細部(火の起こし方、水の運ばれ方、家族の会話)を、実感のある文章で読みたい人
- 5分で読み終わる、事件のない随筆風の短編が好きな人
逆に、起承転結のある物語や、災害の悲劇を正面から描く作品を求める人には勧めない。左千夫の小説を読むなら、まず野菊の墓、次に隣の嫁や春の潮のほうが、物語の力を確かめやすい。「水籠」は、それらを読んだ後で、同じ作家の観察眼を別の形で見る一編として開くのがちょうどいい。初出は「ホトヽギス」第十一巻第二号(1907年11月1日発行)で、短い時間で左千夫の文体の癖を確かめるには向いている。




