結論:勝負は最後の二行。そこだけなら傑作、ただし中盤は作者が語りすぎる
国木田独歩の「忘れえぬ人々」は、有名な三つの回想場面ではなく、末尾の「『秋山』ではなかった。」という一行のために書かれた短編だ。この一行で物語の意味がひっくり返る構成は、明治31年の作品とは思えないほど設計が堅い。一方で、中盤は主人公の大津が自分の理屈を丁寧に説明しすぎており、読んでいて野暮に感じる箇所がある。短い作品なので、結末の仕掛けを味わいたい人には強く勧められるが、「しみじみした風景小説」を期待すると肩透かしを食う。
最小限のあらすじ
三月の初め、雨まじりの風が吹く夜。多摩川の二子の渡しに近い溝口の旅宿「亀屋」に、無名の文学者・大津弁二郎と無名の画家・秋山松之助が泊まり合わせる。酒を飲んで語り合ううち、大津は自作の原稿「忘れ得ぬ人々」を示し、瀬戸内の島の磯にいた男、阿蘇山の麓の馬子、三津が浜の琵琶僧といった、縁もゆかりもないのに忘れられない人々について語る。
「忘れえぬ人々」の構造を読む:回想より額縁が面白い理由
「忘れ得ぬ人」と「忘れてかなうまじき人」の線引き
大津は原稿の冒頭の句として「忘れ得ぬ人は必ずしも忘れてかなうまじき人にあらず」を掲げ、親や恩師のような「忘れてはならない人」と、恩愛も義理もない赤の他人なのに忘れられない人とを区別する。この定義が前半に置かれているから、読者は後半のどこかで「では誰が忘れえぬ人になるのか」を無意識に採点しながら読むことになる。説明が多い箇所ではあるが、結末の仕掛けのために必要な前置きとして、役割ははっきりしている。
三つの回想に共通する「顔が見えない」という設計
島の男は遠すぎて、船が進むにつれて「黒い点」になる。阿蘇の馬子は夕月を背にしていて、顔は「はっきりとは知れなかった」。琵琶僧は顔の色や目の光こそ描かれるが、巷の人は誰も彼を顧みない。三人とも名前も素性も会話もない。大津が覚えているのは人ではなく、その人が置かれた景色と、そこで自分の内側に起きた感情だとわかる。つまり「忘れえぬ人々」とは、実は人物ではなく風景の一部になった他人の集まりだ。この徹底ぶりは、作品のテーマと描写の方法が一致している点で見事だ。
※ここから結末に触れます。
結末の意味:なぜ「亀屋の主人」で、なぜ「秋山」ではないのか
二年後、東北に住む大津は、雨の夜に机に向かう。原稿の最後には「亀屋の主人」が書き加えられており、そして「『秋山』ではなかった。」で終わる。亀屋の主人は、冒頭で客の大津に何の挨拶もせず、後ろ姿も見送らず、猫に怒鳴り、小僧の吉蔵を寝かせろと言いながら自分があくびをしていた、あの無愛想な老人だ。大津とは一度も言葉を交わしていない。
一方の秋山は、一晩中語り合い、「わが領分」とまで思ってくれた相手で、しかも交際は「全く絶えた」。会話の濃さで言えば、記憶に残るのは秋山のはずだった。だが大津の原稿に加わったのは、会話すらしなかった宿の主人のほうである。大津の定義する「忘れ得ぬ人」は、深く関わった人ではなく、何でもない一瞬に心の底へ沈んだ人だという事実を、結末が実演してみせる。しかも冒頭に置かれた主人の滑稽な描写が、そのまま伏線として回収される。この回収の手際は、短編として一級だ。
琵琶僧の場面に見える、この作品の文章の強さ
朝の魚市場の雑踏を長く描いたあと、大津は琵琶の音を聞く。「巷の人は一人もこの僧を顧みない」という一文があり、売り声や鉄砧の音に混じって琵琶が「別に一道の清泉が濁波の間を潜って流れるよう」だと書かれる。騒がしい世間の中の、誰にも顧みられない音という対比が、三つの回想の中で最も端的に作品の主題を示している。読む順番を迷うなら、時間がなくても、この琵琶僧の段落と冒頭の亀屋の場面、そして末尾だけは読んでおきたい。
忖度なしの欠点:大津が語りすぎる、秋山が空気すぎる
「要するに僕は」以降の自己解説は、野暮ではないか
回想の後、大津は「要するに僕は絶えず人生の問題に苦しんでいながら……不幸な男である」と自分を分析し、孤立の中で「我もなければ他もない」状態になり、「心の平穏」を感じると、動機を全部言葉で説明してしまう。三つの回想が十分に感情を運んでいるのに、その意味を作中人物が先回りして言い切るので、読者が自分で気づく余地が削られている。創作する側から見ると、ここは削る価値のある箇所だ。結末の一行で意味が反転する構成が見事なだけに、直前の説明過多が惜しい。
阿蘇の場面だけが長く、馬子が景色に埋もれる
三つの回想のうち、阿蘇のくだりは噴火口の眺め、夕陽の高原、窪地の村、新月と噴煙と、風景描写がずば抜けて長い。ところが肝心の馬子は、民謡を歌って通り過ぎる数行しか出てこない。描写は美しいが、「人」が主題の作品としては配分が景色に偏りすぎている。島の男や琵琶僧と比べても、三つの回想の密度に差があり、構成上のばらつきとして目につく。
聞き手の秋山が、結末のための装置にしか見えない
秋山は「失敬、横になって聴くよ」と、世間の読者の代わりに聞き役をするだけで、自分の考えや過去を語る場面がほとんどない。結末で「秋山ではなかった」と効かせるには、秋山が魅力のある相手であってほしいのだが、人物としては赤ら顔で愛嬌のある画家という以上の厚みがなく、記憶に残る人かどうかの判断材料が少ない。結末の効果は、作者の仕掛けというより、読者の補完に頼っている面がある。
同じ作家の「武蔵野」が景色を主役にした散歩エッセイなら、この作品は景色の中の人を主題にした短編という位置づけで、並べて読むと独歩の関心の幅がわかる。思想を議論で戦わせる「牛肉と馬鈴薯」と比べると、こちらは主張を景色と構成に預けているぶん、読後の後味が軽い。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
- 最後の一行で意味がひっくり返る短編が好きで、構成の仕掛けを味わいたい人
- 人物の物語より、風景の中の他人が心に残る感覚に覚えがある人
- 青空文庫で約1万字の短編を一気に読んで、読後に自分の「忘れえぬ人」を考えたい人
逆に、事件や劇的な展開を求める人や、自己解説のない余白の多い小説を好む人には向かない。冒頭の亀屋の場面を丁寧に読み、末尾の二行に戻る読み方をすると、この作品の仕掛けが一番よく効く。




















