結論:第二幕の船着き場は日本の戯曲でも屈指。だが第三幕で劇が説明と絶叫に落ちる
倉田百三の戯曲「俊寛」は、三幕のうち第二幕第二場だけで十分に読む価値がある。赦免船の上と下に分かれた三人の友が、誓いを一つずつ裏切っていく場面は、人間の弱さを逃げ場なく書き切っている。一方で第三幕は、悲報を人づてに聞かせ、呪いを叫ばせ、最後に家来を入水させるだけの後始末になってしまった。名場面と引き換えに劇が痩せる、惜しい作品だ。
初出は「新小説」1919(大正8)年12月。「出家とその弟子」の作者が、宗教的な赦しではなく、赦されなかった男の怨念を書いたという一点でも、読み比べる意味はある。
最小限のあらすじ
平氏全盛の時代、鬼界が島に流された俊寛、成経、康頼の三人は、飢えと孤独の中で互いに苛立ち、いさかいを重ねている。島に来て二年目の春、都から赦免の船がやってくる。ところが基康が読み上げた赦文には、俊寛の名前だけがなかった。三人は「生死をともにする」と誓い合っていたが、その誓いは船を前にして試されることになる。
※ここから結末に触れます。
倉田百三「俊寛」の魅力は?赦免船の場面と「誓い」の崩れ方を読み解く
なぜ第二幕第二場は息ができないほど苦しいのか
この場面の怖さは、誰も悪人ではないところにある。基康は赦文の文字どおりに動くだけの小役人で、俊寛が「大いなる役人は文書の意のあるところをくみとるべきだ」と詰め寄っても、「わしは平凡な、一人の役人にすぎない」と受け流す。成経は母の手紙を開いて「なつかしい母上よ」と読みふけり、そばで立ちつくす俊寛の存在を一瞬忘れる。誓いを破る瞬間より、その前の「忘れる」瞬間のほうがよほど残酷だ。
成経が先に折れ、次に康頼が折れる順番も計算されている。康頼は最後まで「わしはあなたのそばにいたい」と言いながら、船が動き出してから「待ってくれ。わしは迎えをお受けする」と翻る。信仰篤い男が神々の名で立てた誓いを破るのだから、彼の「この船が地獄に苦しむ罪人を迎えに来た弘誓の船のような気さえしている」という言い分は、自己弁護として読んでも切実な理屈として読んでも成り立つ。読者に誰も断罪させない書き方が上手い。
船が来る前から「棺」に見えていた伏線
第二幕第一場で、康頼と成経が白帆に歓喜するなか、俊寛だけが「棺を迎えるような気がする」と言い、船の帆を「死骸の顔にかける白い布」にたとえる。この予感が、直後の第二場で現実になる。幸福の予告として船を描く二人と、不幸の予告として描く一人を並べ、同じ光景に別々の意味を持たせた点は、舞台の上で成立する伏線の見本だ。
ただしこの不安は、俊寛の被害妄想として早くから描かれているため、的中したとき「やはり」という驚きの少なさも残る。読者が結末を予想できてしまう弱さは、この予感の強調が原因だ。
第一幕の「怨霊」の告白は、俊寛の正義を内側から削る
第一幕で俊寛は、成親が宗盛を呪うために七人の僧を殺して埋めたと打ち明ける。さらに自分たちは「無始以来結ぼれて解けない人間の怨讐の大渦」に巻き込まれただけではないか、と言い出す。成経が「正義に殉じた父をただの犬死にさせるのか」と食ってかかるのは当然で、ここで俊寛は、自分の不幸を支えてきた「自分は正しい」という足場を、自分で壊している。
この揺らぎがあるからこそ、第二幕で友に見捨てられた痛みが「正しい者が報われない」という単純な不条理に収まらず、「自分はそもそも見捨てられるに値する人間なのか」という問いにまで届く。第一幕は退屈な導入に見えるが、第二幕の効き目を決める仕込みになっている。
文体のリズム:長台詞が感情を運ぶ
登場人物はほぼ全員、一息が長い。成経が父の最期を語る第一幕の長台詞や、俊寛の「わしの苦しみは決定することのできない苦しみだ」と妻子の安否を思い乱れる独白は、芝居ならそのまま俳優の見せ場になる。読んでいても息継ぎの位置がわかるほど、台詞が呼吸で組まれている。
倉田百三「俊寛」の欠点は?第三幕の有王の報告と入水の結末が弱い理由
妻子の死を「報告」で済ませたことで、第二幕の熱が冷める
第三幕で来島した有王が語るのは、妻の病死、息子の痘病死、娘の遺体発見という三つの死だ。これを劇は一場の長台詞で処理する。俊寛が「言ってくれ」と促し、有王が口ごもり、また促す、という繰り返しで引っ張るが、起きたことは全て舞台の外の出来事だ。第二幕が目の前で人間が崩れる劇だったのに対し、第三幕は崩れ終わった後の知らせを聞く劇になってしまう。
しかも家族の三連続の不幸は、あまりに用意がよすぎる。俊寛を徹底的に追い込むための数合わせに見え、救いのない悲劇というより、悲劇を揃える作業に近い。
呪いの独白が「叫び」で終わり、人物が深まらない
第三幕第三場で俊寛は月に向かい、悪鬼を呼び、清盛や宗盛の名を挙げて呪う。「わしは生きながらの怨霊だ」と自分で言うくだりもある。しかし、怨念の言葉が説明的に並ぶだけで、第一幕で見せた「自分は正しいのか」という揺らぎは消えている。俊寛の苦しさの核は、正義を信じられなくなる痛みにあったはずだ。呪詛一色に塗り替えられた終盤は、彼を単純な復讐者にしてしまい、人物として後退している。
天に唾を吐いて顔に返ってくる演出は視覚的に強いが、その意味も台詞の中で先に説明されてしまうので、舞台上の驚きにならない。
有王の入水は動機が足りず、余韻より唐突さが勝つ
有王は直前まで「静かにこの世を終わりましょう。来世の平安を祈りましょう」と無常を説いて、俊寛を鎮めようとしていた。それが死骸を見つけた途端、「何という恐ろしい死に顔だろう」と言い、遺体を背負って海に飛び込む。「私は何もわかりません」と自分で言っているとおり、この決断に至る内面の過程は描かれない。忠義の殉死としては筋が通るが、無常を説いた男が、怨念に満ちた主人の死に顔を見て急に自分も死ぬ展開は、作者が幕を下ろすために彼を使ったように見える。
脇役たちの扱いが雑:成経の「復讐」宣言はどこへ消えたか
第二幕で成経は都に帰れば復讐の機会をうかがえると言う。第三幕で有王から彼が宰相の少将に昇るという噂が伝えられる。成経の変節を示す皮肉な対比にはなっているが、肝心の当人は舞台に二度と現れない。康頼が「宝物集」を書くという噂も同様で、裏切った二人の後日談は、すべて伝聞のまま終わる。直接言い争える場面を最後に用意すれば、第二幕の対立が回収できたはずだ。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
劇の山場を一つ選ぶなら第二幕第二場、と言い切れる人には強く薦められる。友情や誓いが、利害の前でいかに簡単に崩れるかを、説教なしの具体的な行為で見せるからだ。特に、組織の中で「命令どおりにやっただけ」と言う人間に煮え湯を飲まされた経験のある読者は、基康の台詞に共感と怒りを同時に覚えるだろう。
反対に、悲劇には必ず救済か、少なくとも納得できる終わり方を求める人には向かない。第三幕の救いのなさは、人間の底を見せる迫力というより、積み上げた悲劇の重さに作品自体が耐えきれていない印象だ。
同じ作者の宗教劇「出家とその弟子」と読み比べると、赦しを描く作家が、赦されない人間を書いたときに何が起きるかが見えて面白い。作者の別の戯曲については、出家とその弟子 感想ネタバレ|泣ける名作か、説教臭い戯曲かで詳しく触れている。読む順番としては、「俊寛」を先に読み、第二幕の強度を体験してから、宗教的な救いを描く「出家とその弟子」へ進むと、同じ作者の振れ幅が分かりやすい。

