結論:前半の密度は古典の名に恥じない。だが、悪役の魅力が主人公と宝の両方を食ってしまう冒険小説
スティーヴンソンの「宝島」は、宿屋に海賊が転がり込む第一章から林檎樽の盗み聞きまでが圧倒的に面白い。一方で、タイトルにもなった宝探しそのものは驚くほど拍子抜けする。物語を支えているのは宝でも少年の成長でもなく、片脚の料理番ジョン・シルヴァーという悪党の人たらしぶりだ。
冒険小説の原型として一度は読む価値がある。ただし「宝の謎解き」を期待する人には期待外れで、「悪党に惚れてしまう小説」として読める人には傑作になる。
最小限のあらすじ
海辺の宿屋「ベンボー提督屋」の少年ジム・ホーキンズは、泊まり込んだ老海賊の死後、その衣類箱から宝島の地図を手に入れる。大地主トゥリローニー、医師リヴジー先生とともに帆船ヒスパニオーラ号で島へ向かうが、雇った船員の中には、料理番シルヴァーを首領とする海賊が紛れていた。ジムは、味方を裏切り者の手から守りつつ、フリントの埋めた宝にたどり着かなければならない。
※ここから結末に触れます。
宝島のジョン・シルヴァーはなぜ魅力的なのか:独自の深掘り
林檎樽の場面が小説全体の背骨になっている
第十一章「林檎樽の中で聞いた話」で、ジムは樽の中に隠れたまま、シルヴァーが若い水夫ディックを海賊の仲間に引き込む一部始終を聞いてしまう。ここで秀逸なのは、シルヴァーが聞き手ごとに口調を変える点だ。若者には「お前は若え。若えが、ペンキみてえにはしっこい。」と持ち上げ、舵手のイズレール・ハンズには、早まるなとたしなめる。同じ人間が、褒める声と脅す声を使い分けている。
しかもジム自身が、同じおべっかを自分も言われていたと気づく。読者が「あの親切は演技だった」と知る瞬間を、少年の怒りと恐怖と一緒に体験させる設計で、冒険小説の山場を戦闘ではなく「会話の盗み聞き」に置いた判断は大胆だ。島に着く前に物語の緊張がここで最高点に達し、後半はその貯金で走っているとも言える。
第一章の「医師と老海賊の睨み合い」が後の力関係を先取りしている
島に着く前の宿屋の章にも、構造上の仕掛けがある。ナイフを抜いた老海賊に対し、リヴジー先生は身動きもせず、「そのナイフをすぐさまポケットにしまわぬと、私は名誉にかけてお前をきっと次の巡回裁判で絞首にしてやるぞ」と、声の調子を変えずに言う。結果は、海賊のほうが「負けた犬のようにぶつぶつ言いながら」席に戻る。
暴力で脅す者に、法と落ち着きで勝つ。この図式は後半、医師が謀叛人に傷の手当てを申し出たり、約束を守る人間として扱われたりする場面で形を変えて繰り返される。さらに、荒くれ者を暴力ではなく言葉で操るシルヴァーは、この秩序を裏返した存在として置かれている。冒頭の短い一場面が、全体の対立の図面になっている点は、もっと評価されていい。
「死人箱にゃあ十五人」の歌が恐怖を運ぶ役割
冒頭、老海賊が歌う「死人箱にゃあ十五人――よいこらさあ、それからラムが一罎と!」は、宿屋の客を黙らせる合図として登場する。この歌は、後半の宝探しで、森の中から「力のない、高い、震え声」で再び聞こえてくる。海賊たちが死んだフリントの声だと信じて青ざめる場面だ。
冒頭で恐怖の記号として植えた歌を、終盤で別の使い方で回収する。この一点では構成が実に丁寧だ。ただ、それが実はベン・ガンの悪戯だったと分かる後述の処理が、せっかくの伏線の格を少し落としている。
語り手ジムの回想が、残酷さを子どもの読み物にしている
物語は冒頭で、ジムが後年に「島の方位だけは秘して」書き留めたものだと宣言される。生き残った老人の回想という形が、殺し合いの連続を安全な距離に置いている。最後に「今でも私のみる一番の悪夢」と島の波音を挙げて終わるのも、冒険を美化しきらない抑制として効いている。
語り手が罪悪を全部自分で引き受けない構造は、同じ作家の「ジーキル博士とハイド氏」が、最後に当人の告白で全てを開示する構造と対照的で、読み比べるとスティーヴンソンの語りの引き出しの広さが分かる。
宝島はつまらない? 忖度なしの欠点と違和感
宝探しが肩透かしで終わる理由:宝は先に掘られていた
第三十二章から三十三章にかけて、海賊たちが地図の印にたどり着くと、宝の穴はすでに空だった。掘り出して洞穴に運んでいたのは、島に置き去りにされていたベン・ガンで、ヒスパニオーラ号の到着の二か月前だったという。しかもこの事実は、決着がついた後に医師の口から「手短に物語って」説明される。
書き手の目で見ると、これは構成の弱さだ。宝探しは小説の看板なのに、読者はその最中に何が起きているかを知らされず、種明かしを後から聞く。謎解きの快感ではなく報告を聞かされている感覚になる。宝の行方を左右した張本人のベン・ガンは、第十五章「島の男」で登場する置き去り人だが、彼が何をしていたかという肝心の部分は、読者の目の前では一度も描かれない。
ジムの無謀がご都合主義に守られている
ジムの行動は、少年の勇気というより、物語がその都合で命を保証しているように見える箇所が多い。ヒスパニオーラ号を奪い返す第五篇で、ジムはイズレール・ハンズを甲板で相手にするが、頼みのピストルは海水に濡れて引金を引いても火花も出ない。「なぜもっとずっと前に」火薬を換えておかなかったのかと本人が悔やむ。
この失敗は少年の未熟として一応筋は通っているが、問題はその後の決着だ。ハンズの短剣で肩を檣に縫い止められた瞬間、ジムの意思とは無関係にピストルが二丁とも発射し、敵が海に落ちる。ジム本人が「自分の意思でしたのだとは私はほとんど言えない」と認めている通り、勝利は偶然の産物だ。直前に「死人は咬みつかないはずだね」とくっくっと笑って優位に立つ場面が、直後に刺されて崩れる落差は面白いが、ここまでの失敗と幸運の連続で少年が生き残る展開は、勇気の描写としては薄い。
シルヴァーの処遇と結末の軽さ
シルヴァーは終盤、仲間を裏切って医師たちの側につくが、これは計算なのか情なのか、最後まで読み切れない。その曖昧さが魅力でもあるのは確かだ。ただ、結末の扱いは軽すぎる。彼は港で小舟に乗って逃げ、隔壁を切って三四百ギニー入りの袋を持ち去る。大地主は彼を「非常な悪党で詐欺師」と罵っているのに、船員たちは「それくらいの廉い金で彼を厄介払いした」ことを喜ぶだけで終わる。
島に置き去りにされた三人の海賊が岬で両手を挙げて哀願する場面は、物語の中で最も後味の悪い箇所なのに、船は何事もなかったように進む。「七十五人で船出をしたが、生き残ったはただ一人。」という海賊の歌と、生還した五人という数を並べて、犠牲の重さを示す工夫はある。しかし、人が大勢死んだ割に、読後の感情は驚くほど整理されすぎている。
シルヴァー以外の海賊が「その他大勢」になっている
悪党の側は、首領の存在感が強すぎるぶん、手下の描き分けが弱い。イズレール・ハンズは「いつだ?」と急かす役、ディックは信心深い若者という役割が与えられているが、モーガンやメリーは怯える・怒鳴るのどちらかに寄っていて、死んでも読者の心は動かない。
宝探しの場面で海賊たちが一斉に怖がる様子は笑えるほど類型的で、この集団がフリントの船員だったという凄みはあまり伝わらない。シルヴァーが「分限紳士」としてまとめあげているという設定は面白いのに、その統率下にいる個々人が見えないので、首領の手腕が相対的に感じにくくなる。主役を引き立てる脇役の層が薄いのは、この作品の素直な弱点だ。
最後に訳文についても触れておく。青空文庫で読める佐々木直次郎訳は、底本が岩波文庫(初版1935年)で、水夫の言葉は「己ぁあっさりした男でな」のような古い口語に訳されている。雰囲気は出ているが、一文が長く、註の数も多い。船の用語や貨幣の説明が章ごとに付くため、勢いのある場面で何度も註に目を落とすことになる。物語を読むだけなら新しい訳のほうが入りやすい。ただし、無料で全文が読め、時代がかった言い回しがかえって船乗りの粗野な口調に合っているのも事実で、悪役の台詞を味わう目的なら、この訳でも十分に楽しめる。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
- 悪役が善人を食ってしまう物語が好きな人。シルヴァーの場面だけで元が取れる
- 後世の海賊物の原型を確認したい人。老海賊、黒丸、宝の地図、置き去り人という道具立てがこの一冊に揃っている
- 宝の謎解きや緻密なプロットを求める人には向かない。後半は運と偶然で進む
おすすめの読み方は、前半(第一章から第十二章まで)を一気に読み、島に着いてからは、シルヴァーが登場する場面を軸に読むことだ。宝よりも、人を言葉で操る男の話として読み直すと、この小説は一段と面白くなる。

