死刑囚最後の日感想ネタバレ|名なき男の独白は説教か傑作か

結論:死刑反対を「体感」で読ませる力は本物。ただし小説としては、主張が先に立つ劇薬

「いいわね、六週間後でしょう!」。護送馬車に乗せられた語り手の背中に、通りすがりの若い娘がこう言い捨てる。ユゴーの「死刑囚最後の日」は、この一言が最後まで耳から離れない小説だ。

断頭台までの時間を一人の男の頭の中から描き切る迫力は、短い作品でも群を抜いている。一方で、これは作者自身が「死刑廃止の弁論」と宣言した作品で、物語は論証の道具にもなっている。傑作と呼ぶか説教と呼ぶかは、読み手が人物の「人間らしさ」と主張の「正しさ」のどちらを先に見るかで分かれるだろう。私は前半を傑作、後半の一部を過剰だと評価する。

最小限のあらすじ

パリの重罪裁判で、名前も明かされない男に死刑が宣告される。男はビセートル監獄の独房に入れられ、上告の結果が出るまでの数週間、自分の苦しみを書き留めていく。母、妻、三歳の娘マリーを残して死ぬことへの恐怖と、減刑への淡い期待。そして上告が却下された朝から、グレーヴの広場へ向かう最後の道のりが始まる。

「死刑囚最後の日」の独自の深掘り:名前と罪を伏せた語りが読者を逃がさない理由

なぜ語り手の名前も罪の中身も明かされないのか

語り手は自分を「正当に罰せられている」と認め、「ほんとうの罪悪を犯し血を流した」とも言う。ところが、何をしたのかは最後まで語られない。作者は後年の序文で、人物の名前や特殊な事情は意図的に削ったと明かしている。特定の誰かの弁護ではなく、すべての被告に通じる弁論にするためだ。

この設計は、技術として正しい。罪の中身が分からないから、読者は「この男は死んで当然か」という計算に逃げられない。判決の是非ではなく、判決の後に残る時間だけを見せられる。冒頭の「死刑囚!」という一語が、章をまたいで鉛のように繰り返されるのも、固定観念に憑かれた男の頭の中をそのまま読ませる仕掛けとして効いている。

第二章の晴天と「六週間後」の回収

第二章の判決の朝は、窓から差す日の光、花売娘の笑い声、石の隙間に生えた黄色い草と、驚くほど明るく書かれている。弁護士に「終身懲役だけのことだ」と言われた男が「そんならいっそ死刑のほうがましだ」と憤る直後に、本当に死刑が宣告される。この明るさと残酷さの落差は、この作品の最良の場面だと思う。

第八章では、上告の手続きにかかる日数を役所の段取りとして淡々と数え上げ、「全部で六週間。あの若い娘が言ったことはもっともだ。」と締める。第二章の捨て台詞を、事務の論理で裏づけてしまう構成だ。人の命が書類の順番待ちになっている皮肉を、説教抜きで読ませている。

徒刑囚の鎖つけの場面が、死刑の恐怖を二重に照らす

第十三章で語り手は、徒刑囚が首枷を鋲で締められる様子を窓から見せられる。冷たい雨に打たれて裸のまま立たされる囚人たちが、やがて死刑囚を見つけて「あいつしあわせだな、刈られちまうんだから」と叫ぶ。死刑より重い刑がありうる、という視点を作中に持ち込んだ場面だ。

ここがうまいのは、死刑囚を単純な被害者に置かないことだ。語り手は徒刑囚の「仲間」だと気づいてふるえ、気を失う。同情と恐怖と見下しが混ざった、きれいごとではない反応が書かれているから、後の独白にも信用が生まれる。

※ここから結末に触れます。

第四十三章「おじちゃまよ」:娘に父と認められない父

最大の山場は、処刑の直前に連れてこられた娘マリーとの面会だ。娘は父を忘れ、「おじちゃま」と呼ぶ。「お前のパパは、私だよ」と告げられても顔をそむけ、「おひげが痛い」と腕から逃げようとする。さらに、娘が指でたどって読み始めたのは、女中が一スーで買った父自身の死刑判決文だった。

「紙を返してよ。ね、今のはうそね。」という娘の言葉は、子どもらしい否認であり、同時に作品全体への問いにもなっている。涙を誘う場面だが、作りすぎだとは感じない。死の恐怖より先に、「父」でなくなる痛みを置いたことで、語り手が数字ではなく一人の父親として立ち上がるからだ。

その直後の第四十七章は、題だけが置かれ、「発行者曰――ここに該当する原稿を探したが、まだ見出せない。」とだけ記される。娘に残すはずの手記が白紙のまま終わる。短い欠落が、作中のどの描写よりも重い。

忖度なしの欠点・違和感:死刑囚最後の日の「手記」としての無理と、論の偏り

「これを書いている」はどこまで可能なのか

形式は、語り手が独房で書き続けた手記ということになっている。ところが、移送の馬車の場面では「これを書いている今もなおその雨が降っている」と書かれ、処刑当日の刻々の出来事が、そのまま同時進行のように並ぶ。縛られ、馬車に揺られ、群衆に囲まれている最中に、商店の看板の文字や橋の名前まで正確に記す余裕があるとは考えにくい。

第六章で「なぜ書くのか」を説明して、手記の形式に理由は与えられている。だからこそ、この当日の同時中継感だけが目立つ。市庁の章では「これまでのことを述べておこう」と回想の形に切り替わるので、書き方の基準が章ごとに揺れていると言わざるを得ない。恐怖の生々しさのために、手記というフィクションの約束を自分で破っている。

被害者がいない:死刑制度の論点が片側に傾く

罪の中身を伏せる設計は前述のとおり巧い。ただ裏返せば、殺された側の存在が作中にほとんど出てこない。語り手は壁の落書きを見て、先に収容された殺人者たちの名前と所業を思い出すが、それは語り手の恐怖を増す小道具として使われるだけだ。

そのため、死刑に賛成する読者に対しては、作品が答える構造になっていない。判決を下す側の人々は、あくびをし、食事を済ませてきた弁護士に微笑まれ、というように、鈍感で善良な背景として描かれる。反対論の説得力は感情の揺さぶりに頼っていて、論として読むと一方向の弁論だ。作者自身が序文で「弁論」と言い切るとおりなのだが、小説としては、敵役を単純にして勝つ構図になっている。

豊島訳の読みにくさと、序文の置き場所

青空文庫で読める豊島与志雄訳は、原文の調子を尊重して固くなった、と訳者自身が解説で認めている。長い一文に比喩が積み重なる箇所が多く、冒頭や第六章の独白は、息継ぎの位置を探りながら読むことになる。初めて読む人は、短い章が続く後半から入っても作品の力は伝わる。

もう一つ、この版では序文が本文の後に置かれている。解説によれば、執筆順に合わせた並びだという。しかし、読み終えた直後に「これは死刑廃止の弁論だ」と作者本人から念を押されると、直前までの余韻が説明で上書きされてしまう。先に序文を読めば先入観がつき、後に読めば説教になる。どちらにしても損をする置き場所だと感じた。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

向いているのは、次のような人だ。

  • 死刑制度の賛否を、数字や理屈ではなく、一人の人間の時間として一度体験しておきたい人
  • 一人称の独白で、心理が崩れていく過程を読ませる小説が好きな人
  • ユゴーを「レ・ミゼラブル」だけで知っている人。長大な語りの脱線が気になった人でも、こちらは短い章で一気に読める。長編の感想はレ・ミゼラブル感想ネタバレに書いたので、読み比べると主張の運び方の違いが分かる

逆に、敵味方の双方に筋の通った論戦を期待する人や、古い訳文が苦手な人には勧めにくい。読むなら、第二章、第八章、第十三章、第四十三章と、結末の二章を拾い読みするだけでも、この作品の核心には届く。