久保田万太郎「三の酉」感想ネタバレ|結末一行の重み

結論:会話の芸は一級品。だが「泣かせる」ための仕掛けが最後に透けて見える短編

久保田万太郎の「三の酉」は、ほぼ全編が男と女の掛け合いだけでできている。それなのに、赤坂の芸妓おさわが抱えている孤独は、地の文の説明なしに会話の隙間から立ち上がってくる。この技術は本物だ。一方で、結末の六節目は、そこまで積み上げた軽妙さを一気に湿らせる。効果は大きいが、その効かせ方はやや手慣れすぎている。会話小説の見本として読む価値は高く、感動を期待して読むと少し肩透かしになる。

最小限のあらすじ

語り手の「ぼく」は、酉の市に男と連れ立って行った芸妓のおさわを、からかい半分に問い詰める。おさわは吉原の引手茶屋の娘で、関東大震災で両親を亡くしたと身の上を明かし、数日前に鎌倉の旧友夫婦の家に泊まった話や、酉の市に誘った男への失望を語っていく。二人は酒を飲みながら、来年は一緒に酉の市へ行こうという話になる。

※ここから結末に触れます。

「三の酉」の会話文が巧い理由:おさわの本音はどこに出るのか

「顔より大きなマスク」で笑いと涙を同時に作る

冒頭近く、おさわは「それをいうの、かなしいんですもの」と目を伏せる。ところが次の瞬間、語り手が口にした「顔よりも大きなマスク」を思い出して吹き出す。泣きそうになった人が笑ってしまうこの切り返しは、作中でおさわ自身が「いま泣いたかと思ったカラスが、すぐもうわらってる」と自嘲するほどだ。悲しい身の上話の入口に、わざと笑いを挟んで感傷を濁らせる。この呼吸のおかげで、後半の本音が説教臭くならずに済んでいる。

創作する側から見ると、ここは真似しにくい。感情を台詞で説明すれば湿っぽくなり、地の文で解説すれば冷める。万太郎は、笑いの直後に悲しみを置き、悲しみの直後にまた軽口を置くという、台詞の順番だけで温度を調整している。読者は「泣いていい場面かどうか」を決めかねたまま読み進めることになり、その宙づりが後で効いてくる。

おでんとチリ鍋が示す「帰る家のなさ」

鎌倉の旧友・年ちゃん夫婦の家の夕餉の場面は、本作の背骨だ。長火鉢にかかったおでん、台所のばあやの手料理、酔うほど機嫌のよくなる亭主と、それをたしなめつつ切り上げさせない妻。おさわはそれを見て「これだ、これなんだ、これでなくっちゃァいけないんだ」と胸が一杯になるが、何がこれなのかは自分でも分からない。この「分からない」で止める書き方が良い。羨望だとも寂しさだとも書かず、食べ物の描写だけで温度差を伝えている。

だから終盤、語り手と鍋を囲むおさわが言う「心の住処のないことが」が効く。おでんの夜と、金田でトリを食べた夜、そして今夜のチリ鍋と、食卓が三つ並べられていたことに、ここで気づかされる。

三の酉の「昼間」にこだわる理由と、死が告げられる最後の節

おさわは、酉の市は人込みの昼間でなければ嫌だと言う。理由は、父母がひょっこり出てきそうな気がするから。花園池で亡くなった両親の話がここで効いてくる。そのうえで彼女は「一日だけ、あなたの奥さんになって上げるのよ」と言い、帰りの勘定は語り手持ちだと付け加えて笑う。軽口で終わる場面だが、読者は彼女の願いが「誰かの妻になる一日」であることを知ってしまう。

そして六節目、「おさわは、しかし、その年の酉の市の来るのをまたずに死んだ」と一行で告げられる。直前の約束が、すべて果たされない約束だったと分かる仕掛けだ。続く「たかだかとあはれは三の酉の月」の句も、語り手の思慕を一句に畳んでみせる。余韻としては見事で、読み終えたあとにもう一度冒頭の掛け合いを読み返したくなる。

「三の酉」の欠点・違和感:結末の唐突さと語り手の位置

死の告知が前の五節と釣り合っていない

おさわは、この日の会話のあいだ、病んでいるそぶりを一度も見せない。酒も進み、冬が大好きだと笑い、電話をかけに立つ後ろ姿が昔の芸妓のようだと語り手に感じられる程度だ。そこから最後に「死んだ」とだけ言われても、読者の側にはそれを受け止める準備がない。ここで死を使うのは、書き手の視点から見れば強い札の切り方で、作品の余韻の大半をこの一行に預けている。伏線がないぶん、感動というより、不意打ちを食らった感じが先に来る。

語り手が鈍く、自分の気持ちを後出しにする

語り手は、おさわの身の上話に対して「必ずしも、そうもいえないだろう」「人間の一生なんてものは、はじめッから、そういう風にしくんであるんだ」と、しばしば一般論で受け流す。おさわが本音を見せかけるたびに、冗談や雑学で話を逸らすのも彼のほうだ。にもかかわらず、最後になって突然「思慕」を匂わせる。これまでの態度から、その思慕は読み取れない。読者が納得するには、五節のどこかに、語り手の動揺か未練を一度でも見せておく必要があった。

説明的な身の上話が、会話の自然さを少し壊す

吉原生まれで、親は区会議員をつとめ、十四歳で震災に遭い、十五の春から三十年芸妓をしてきた。これらは、おさわが一息に語り、語り手がそれを整理する形で出てくる。この「対談ごッこ」を作中で自覚的にやっているのは面白いが、結果として年表の情報が会話に乗りすぎ、前後の自然な軽さに比べると少し硬い。年ちゃんの一件も含め、人物関係はやや説明的に配置されている。

対策は難しくない。身の上の事実を一度に出さず、酉の市の人込みや鍋の湯気といった場面の動きに散らして、会話の途中で少しずつ漏らせば、軽さを保ったまま同じ情報を渡せたはずだ。本作の良さが「会話の隙間」にある以上、隙間を埋める説明は、長所を自分で削る結果になっている。

同じ作者の「春泥」でも会話の運びは鮮やかだが、あちらは結末の説明不足が気になった。詳しくは久保田万太郎「春泥」の感想に書いた。「三の酉」はそれより短く締まっていて、入口としては読みやすい。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

会話だけで人物を立たせる技術を学びたい書き手には、非常に有益な教材になる。昭和の花柳界の空気や、酉の市の昼間のにぎわいといった時代の手触りを味わいたい読者にも向く。一方で、はっきりした事件や、人物の変化の過程を求める人には薄味だろう。青空文庫で約1万字、30分もあれば読み切れる。まず冒頭の掛け合いを数ページ読んでみて、その調子が肌に合うかどうかで判断するのが一番確実だ。

読み返すなら、結末を知ったうえで、おさわの「来年は一緒に」という約束と、鎌倉の夕餉の場面を拾い直してほしい。初読では軽口に聞こえた台詞が、二度目には別の重さを持つ。この二度読みで味が変わるかどうかが、本作を佳品とみなすか、結末頼みの作品とみなすかの分かれ目になる。