結論:恋の終わりの一場面だけを切り取った小品。ただし読み味は訳文の癖に大きく左右される
ツルゲーネフの「あいびき」は、約一万字の短編のうち、冒頭の四分の一ほどが樺林の天気と景色の描写に費やされている。恋の物語として読むと、ここで最初の壁にぶつかる。その壁を越えたあとの、身分の低い娘と気取った男の別れ話は鋭く、読後の苦さも長く残る。ただ、二葉亭四迷の訳文は、現代の読者にとって決して親切ではない。名作として敬意を払うことと、楽しく読めることは別の話だ。
最小限のあらすじ
秋の九月、猟に出た「自分」は、雨上がりの樺林でひと眠りする。目覚めると、農夫の娘アクーリナが涙を浮かべて誰かを待っていた。やって来たのは、主人に付いて明日ペテルブルグへ発つという、洒落者ぶった若い男ヴィクトル。娘は別れの前にせめて一言の情がほしいと願うが、男はそれを面倒がるだけだった。
二葉亭四迷訳「あいびき」の独自の深掘り:風景・小道具・語り手の位置
樺林の描写は「天気が人物の心を先に語る」仕掛けになっている
冒頭の長い風景描写は、確かに読み手を試す。それでも、削ってよい飾りとは言い切れない。語り手が木の葉の音を「ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語の声であった」と書く場面では、日が射したり曇ったりと、空模様が目まぐるしく入れ替わる。この落ち着かない天気は、のちにアクーリナの顔が赤くなり、青ざめ、また萎れる変化とそのまま重なる。娘が登場する前に、読者の耳は「何かを待つ静けさ」に調律されているわけだ。
終盤の風景はさらに効いている。男が去ったあと、語り手は野に出る。日は低く、野分が落ち葉を吹き散らし、「ア、秋だ!」と声が上がる。娘の恋の終わりと季節の終わりを重ねる手つきはわかりやすいが、感傷に流れすぎず、冷たい乾いた空気のまま止めているのがうまい。
眼鏡の場面が、二人の身分差を説明抜きで見せる
この短編でいちばん優れているのは、実は恋の言葉のやり取りではなく、眼鏡の小さなくだりだと思う。ヴィクトルは眼鏡を外套から出して目に当てようとするが、うまく固定できずに何度も手に落とす。何のための道具かと聞くアクーリナに、「よく見えるのよ」と答える。娘は貸してもらって覗くが、何も見えない。そこで男に叱られ、顔を赤くして「どうでも私たちの持つもんじゃないとみえる」と笑う。男の返事は「知れたことサ」の一言だ。
眼鏡は、都会の教養と持ち物は自分に縁がないものだと娘が悟る瞬間を、一つの道具で見せている。しかも男は、使いこなせない眼鏡を見せびらかしている。滑稽さと冷酷さが同じ小道具に乗っているので、悪役を悪人らしく描く必要がなくなっている。
※ここから結末に触れます。
あいびきの結末の意味:語り手が助けに入らない「見て見ぬふり」
結末では、ヴィクトルは泣き崩れる娘の背中をしばらく眺め、首をすくめて立ち去る。取り残された娘は追おうとして膝をつく。見かねた語り手が木陰から飛び出すと、娘は彼を見て小さく叫び、林の中へ逃げ込んでしまう。最後に語り手に残るのは、拾い上げた花束だけだ。そして物語は「持帰ッた花の束ねは、からびたままで、なおいまだに秘蔵してある」で終わる。
ここで語り手は、娘を救えなかったのではなく、救おうとして見られてしまい、かえって逃げられる。最初から終わりまで盗み見ていた立場の後ろめたさが、この逃走で一気に表に出る。同情しているつもりの観察者も、娘にとっては最も見られたくない場面の目撃者でしかない。同情が自己満足に傾く危うさまで、短い一行で突いている点は評価したい。同じ作家の長編「はつ恋」と読み比べると、この作家が恋を語るときの距離の取り方の違いが見えてくる。
「あいびき」の欠点・違和感:読みにくい訳文と、類型に頼った男の造形
冒頭の風景描写が長く、本題に入るまでが重い
先ほど擁護はしたが、長いものは長い。娘が現れるまでに、天気の移ろい、白楊の木が嫌いだという話、眠りに入るまでの顛末が続き、白楊への好き嫌いなどは物語の骨組みに何の役割も果たしていない。天気を人物の心理に重ねるという仕掛けは、半分の長さでも成立したはずだ。書き手の目で見ると、ここは「描写の腕を見せたい」欲が先に立っている。短編の導入としては、読者を待たせすぎている。
ヴィクトルが類型的で、悪役として分かりやすすぎる
ヴィクトルは、あくびをし、鼻声で話し、髭を引っ張り、泣かれると面倒がる。つまり「傲慢な洒落者」の記号を最初から最後まで一つも崩さない。眼鏡の場面は優れているものの、人物の厚みはそこで止まっている。彼にも少しでも躊躇や、自分を取り繕う弱さが見えれば、娘の「何か一言だけ」の願いが残酷さをさらに増したはずだ。男が最後まで一貫して無神経であるため、読者は娘に同情するだけで済み、そこに迷う余地がない。感情の動かし方が単線的で、「悪い男に騙される純朴な娘」という図式を超えていない。
二葉亭の訳文が現代の読者には壁になる
文章は言文一致の先駆けとされるが、今読むと「ト言ッて」「ソノ」「ガ」のような独特の表記、会話の終わりに付く「ト」の連発、「ヴィクトル」「アクーリナ」を一々鉤括弧で囲む書き方が、ひどく目につく。訳者自身が冒頭の前書きで「私の訳文は我ながら不思議とソノ何んだが」と断っているほどだ。作品の質と訳文の読みやすさが別問題であることは、この短編を読めばよくわかる。内容だけ知りたい人は、冒頭の前書きと風景を読み飛ばし、娘が現れる場面から入っても筋はつかめる。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
向いているのは、短い時間で「恋の終わりの質感」だけを味わいたい人と、日本の近代文学の文体の変化に関心がある人だ。後者にとっては、二葉亭の文体を実際に読めること自体が価値になる。逆に、起伏のある筋立てや、登場人物が内面で葛藤する話を求める人には向かない。読む順番としては、まず「はつ恋」で作家の語りに慣れ、その後で「あいびき」を読むと、短編のぶん落ち着いて味わえる。長さが一万字弱なので、冒頭の風景は割り切って、娘が現れる場面から読み始めても大きくは困らない。




