モルグ街の殺人事件 感想ネタバレ|犯人が猩々の結末を辛口評価

結論:推理の手順は今も教科書。ただし真相の出し方は、読者を置き去りにする不親切な傑作

ポーの「モルグ街の殺人事件」は、密室、不可解な目撃証言、無能な警察、一人だけ真相に届く探偵という、のちの推理小説が何度も使う型をほぼ全部そろえた作品だ。謎の組み立てと、デュパンが窓の釘にたどり着く推理の段取りは見事で、創作をする人間なら一度は分解して読むべき一編だと思う。

一方で、犯人の正体は読者が自力で当てられる作りになっていない。しかも、種明かしの後半は説明の連続で、緊張がほどける。「推理の過程を味わいたい人」には傑作、「犯人当てで勝負したい人」には劇薬だ。

最小限のあらすじ

パリで、語り手の「私」は没落した青年貴族デュパンと、夜だけ活動する共同生活を送っている。ある朝、モルグ街の四階で母娘が惨殺される。娘の死体は煙突に逆さに押し込まれ、母は中庭で首がほとんど切れた状態で見つかった。部屋は内側から施錠され、金貨は手つかずのままだった。無実の銀行員ル・ボンが逮捕されたため、デュパンは自分で調べ始める。

デュパンの推理は何がすごいのか:独自の深掘り

冒頭の「果物屋」の逸話が、事件の読み方を先に教えている

事件が始まる前に、デュパンが散歩中の沈黙のあと、「私」の頭の中の考えを言い当てる場面がある。彼は「シャンティリ、オリオン星座、ニコルズ博士、エピキュロス、截石法、往来の舗石、果物屋」という連鎖を逆にたどって見せる。

この逸話は余興に見えて、実は本編の予告編になっている。結果から原因へさかのぼれば、飛躍に見える結論にも道筋がある、という宣言だからだ。読者はここで推理のルールを刷り込まれ、事件編に入る。構成としてはうまい。ただ、この種明かしにも「私が何を考えていたか」は後出しで説明されるだけなので、読者が先に当てる余地はない。この癖は事件編でも続く。

「異常」と「難解」を分ける視点が、謎の見え方を反転させる

デュパンは警察を評して、こう言う。「彼らは、異常なことと難解なこととを混同するという、あの大きな、しかしよくある誤ちに陥っている」。

この一言が、この作品でいちばん強い。死体の状態があまりに凄惨なので、警察は「不可解な犯人像」を探して立ち往生する。デュパンは逆に、「今までに起こったことのない点はどこか」と問う。異様さを謎の深さと取り違えない、という態度は、ミステリを書く側にとっては今でも実用的な教訓だ。「真理は必ずしも井戸のなかにはない」という台詞も、凝りすぎた手がかり探しへの警告として読める。

五か国の証言と「窓の釘」:手がかりの置き方が最も巧い

目撃証言のくだりは、この作品の白眉だと思う。争う声のうち、荒々しいほうはフランス語だと全員が一致する。ところが、甲高いほうの声は、イタリア人はロシア人、イギリス人はドイツ人、スペイン人はイギリス人と、全員が「自分の知らない国の言葉」だと言い張る。デュパンはここから、誰も聞いたことのない、言葉ですらない声だったと読み取る。

もう一つの山場が窓だ。釘が打ってある以上、窓は開かない、と警察は考えた。デュパンは「釘になにか変ったことがあるにちがいない」と調べ、折れた釘の頭だけがはまっていることを見つける。隠しばねで勝手に閉まる窓と、折れた釘の組み合わせで、密室は「見た目だけの密室」だったと分かる。観察の細かさと、物的証拠が真相に直結する論理の運びは、書き手として素直にうらやましい。

※ここから結末に触れます。

犯人が猩々なのはアリか?ご都合主義とフェアさの欠点・違和感

真相の鍵が、読者の手の届かない場所に置かれている

最大の不満はここだ。決め手になるのは、「指の痕が人間の指では再現できない」という図と、キュヴィエの動物解剖学の一章である。デュパンは「じゃあ今度は、キュヴィエのこの章を読んでみたまえ」と本を渡し、読者は初めて猩々という答えを知る。

つまり、読者は手がかりを集めていても、答えを出すための知識を持っていなければ、いつまでも推理が完結しない。声、敏捷さ、動機のなさまでは親切に並べておきながら、最後の一歩だけ、外部の資料を探偵が持ち出して解く。ミステリとしてのフェアさでいえば、ここは明確に弱い。犯人の意外さでも勝負しているのに、その意外さを読者が自分の頭で到達できないという点で、損をしている。

解決編が長い告白で終わり、せっかくの緊張が抜ける

デュパンが広告を出し、現れた水夫に鍵をかけてピストルを机に置く場面までは、緊張感が高い。ところが、ここから水夫が事件の一部始終を語り、物語は終わりに向かってしまう。猩々が剃刀を持って鏡の前に座っていた、避雷針を登った、娘を煙突に押し込んだ、といった出来事が、人物の口からまとめて説明される。

探偵が推理で組み上げた内容と、告白の内容がほぼ重なるため、読者は同じ話を二回聞くことになる。推理の確認としては意味があるが、読み物としての勢いは落ちる。ここは短くまとめるか、デュパンの推理だけで切り上げたほうが、鋭い後味が残ったはずだ。

導入の長い講釈と、締めの小さな意趣返しが足を引っ張る

冒頭には、チェス、ドラフツ、ホイストを引き合いにした分析論が延々と続く。後の逸話で回収される主題を先に述べているので意味はあるのだが、物語を求めて読み始めた人にとっては、事件が起こるまでの距離が長い。今の読者向けには、ここで離脱する人が出るのは確かだろう。

また、結末でデュパンは警視総監を「彼の知恵には雄蕊がない」とこき下ろす。優れた探偵なのに、勝った後で相手をけなす場面を足したことで、冷静な分析家という人物像に、器の小さい印象が混ざってしまった。動機を語るのも「ル・ボンへの恩義」程度で、デュパンの推理の原動力が薄いのも弱点だ。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

向いているのは、推理小説の「型」の出発点を確かめたい人、論理の運び方そのものを味わいたい人だ。創作者なら、証言の矛盾を手がかりに変える技術と、見かけの密室を崩す物証の置き方は、そのまま参考になる。短い分量なので、一晩で読み切れる。

反対に、自分で犯人を当てる快感を求める人には向かない。ポーの怖さと、こうした「論理の解剖」を味わうなら、まず同じ作家の「黒猫」で語り手の自白の怖さを体験してから戻ると、ポーが「語り」と「推理」のどちらに重心を置く作家なのかがよく分かる。幻想寄りの味わいなら「アッシャー家の崩壊」も併せて読むと、同じ作家の振れ幅が見える。

今回は青空文庫の佐々木直次郎訳(底本は新潮文庫)で読んだ。初出は1841年4月の「グレアム雑誌」。