草枕 感想ネタバレ|「憐れ」までの長い助走を辛口評価

結論:冒頭の一ページと最後の一言は日本語の宝。ただし間は筋が痩せ、読者を選ぶ名文の迷路

夏目漱石の「草枕」は、小説というより「長い芸術論に、筋が申し訳程度に付いた旅の記録」だ。冒頭の名文と、最後の一言で画が成就する瞬間は文句なしに強い。一方で、その間の大半は画工の理屈と漢詩文の連打で進み、物語の推進力はほとんどない。傑作かと問われれば「部分は傑作、全体は人を選ぶ」と答える。散文詩として読める人には劇薬で、あらすじを追いたい人には苦行になる。

最小限のあらすじ

語り手の画家は、世の中の人情から離れる「非人情」の旅に出て、春の山路を越え、那古井の温泉宿に着く。宿には、嫁ぎ先から戻ったという若い女、那美さんがいて、夜の庭を歌いながら歩くような得体の知れなさで画工を惑わせる。画工は彼女を画にしようとするが、何かが足りないと感じて筆が進まない。

「草枕」の面白さはどこか?非人情・那美さん・文体の独自の深掘り

「智に働けば角が立つ」の冒頭は、小説の宣言として完璧

書き出しの「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」は、これ一つで作品の立場を言い切っている。住みにくさが高じたとき「詩が生れて、画が出来る」という流れも見事で、読者は最初の数行で「この語り手は人の世から降りて、見る側に回ろうとしている」と理解できる。

しかもこの冒頭は、山路を登る足取りと思考の漂流が重なっている。考えが流れ着いたところで足が角石を踏み損ね、思索がふっと現実に戻る。理屈で始まりながら身体の動きで区切る手際は、あとに続く理屈の連続を読ませるための撒き餌としてもよくできている。

非人情とは何か。画工が自分に課した「見る側」のルール

「非人情」は、冷たくなることではない。語り手は、これから出会う人間を能の役者のように「大自然の点景」として見る、と宣言する。心理に立ち入れば俗になる、利害が絡めば美的に見られなくなる、という理屈だ。つまり「草枕」は、書き手が最初に自分の方法論を公開してから始まる小説で、読者はルールを知ったうえで、そのルールが破れる過程を見ることになる。

この設計が面白いのは、画工自身が何度も失敗するからだ。夜の庭で影を見て、詮索を始めてしまった自分を「もう少し修行をしなければ」と責める箇所がある。理論を掲げる語り手が、現実の女に簡単に揺さぶられる。このずれこそが、作品の本当のドラマになっている。

那美さんと振袖の影:謎めいた女を、謎のまま使う技術

那美さんは、最初から本人の口で語られない。宿へ着く前に茶屋の婆さんが「嬢様」の身の上を語る。二人の男に思いを寄せられた長良の乙女の話と重ね、城下へ嫁いだが、銀行がつぶれて戻ってきた、世間は不人情だ薄情だと言うが、昔は内気で優しい人だった、と。画工は「これからさきを聞くと、せっかくの趣向が壊れる」と話を打ち切る。ここで事情を最後まで聞かせないのが、上手いところだ。

その夜に聞こえる歌が、婆さんの話した長良の乙女の歌と同じだ、という配置もよく効いている。夢の中でも乙女がオフェリヤに変わる。伝説、西洋絵画、現実の女が、一人の人物に重なっていく。人物の中身を説明せず、「何に似ているか」で膨らませる技法は、後の長い芸術論が物語から浮かないための接着剤になっている。

文体の緩急にも触れておく。文章は漢語と対句の洪水だが、読みにくさだけではない。雲雀を「魂全体が鳴くのだ」と言い切る一節や、葛湯を練るように詩が粘ってくるという比喩は、難しい議論を身体の感覚に引き戻す。理屈が三段落続いたあと、馬子との短い会話が差し込まれて、空気が入れ替わる。読者を酔わせてから肩を叩く、リズムの作り方は職人的だ。

その那美さんが姿を現す中盤の場面が、ここでは最も印象に残る。

中盤で最も印象に残るのは、画工が漢詩を作っている最中に、向かいの二階の縁側を振袖姿の女が音もなく歩いていく場面だ。往って、戻って、また往く。理由は語られず、画工にも分からない。黄昏の雨の中で裾模様が闇に溶けていく描写は、「夜と昼との境」を歩く女という一行に凝縮されている。

ここで画工は、声をかけて「うつつの裡から救ってやろうか」と思いながら、口が利けなくなる。非人情を気取る男の身体が、先に人情で固まってしまうわけだ。理屈で語ってきたことを、場面が静かに裏切る。長い議論が続く中盤の中で、この場面だけは理屈抜きに映像として立つ。「草枕」を一度は最後まで通読する価値は、こうした数場面の強度にある。

※ここから結末に触れます。

結末の「憐れ」は、画が成就する瞬間として最も美しい

終盤、出征する久一さんを見送る川舟の場面が長く続く。那美さんは「死んで御出で」と二度も言い放つ。停車場で汽車が動き出し、最後の三等車の窓から、髯だらけの野武士が顔を出す。そこで那美さんと野武士は顔を見合わせる。この男は、少し前に彼女自身が「今の亭主じゃありません、離縁された亭主です」と明かした相手だ。

画工は、那美さんの茫然とした表情に「今までかつて見た事のない『憐れ』」を見る。そして「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」と叫ぶ。それまで画にならなかった顔に足りなかったのは、これだった。長い助走の末に、理論ではなく一人の女の顔が答えを出す。この一撃のために全体があったと言われれば、納得できる。

「草枕」はつまらない?忖度なしの欠点・違和感と挫折しやすい理由

筋がほとんど動かず、中盤の芸術論が重すぎる

最大の弱点は、物語の推進力の薄さだ。宿に着いて以降、画工は部屋で画と詩と音楽を比べ、レッシングを持ち出し、二十行を超える理屈を続ける。感興を絵にできるか、詩にできるかという議論は、作品の主題には関わっているが、場面として進展しない。ここを面白いと思えるのは、はじめから芸術論を読みたい人だけだ。小説の書き手の目で見ると、同じ論点を二度三度、角度を変えて繰り返しているのが気になる。

冒頭の山路でも、画工は雲雀から詩人の苦労、西洋詩と東洋詩の違い、芝居や小説の「人情」への嫌悪へと、歩きながら考えを広げ続ける。ここまでは足取りと連動しているので読めるが、宿に腰を落ち着けてからは、その足取りという支えがなくなる。机に向かって頬杖をつく画工を、数ページ眺め続ける構図は、書き手の立場から見ても動きが足りない。せめて理屈の合間に、宿の人間や外の出来事が挟まれば、読者の息継ぎができたはずだ。

「坊っちゃん」のように人物の行動が話を引っ張る作品を期待すると、確実に裏切られる。その意味で、漱石の入口として「草枕」を勧めるのは危うい。

さらに言えば、画工が漢詩を六句、八句と作って「どうも物足りない」と首をひねる流れは、書き手としては理解できる反面、読者には結果が見えている。詩にしても画にしてもうまくいかない、という出来事の繰り返しは、構成として単調だ。失敗の見せ方に変化がほしい。

非人情の理論が、後半でほとんど回収されない

序盤で語り手は、人間を画中の人物と見て、心理に立ち入らないと宣言した。ところが物語が進むと、那美さんの過去も、家族の事情も、画工の関心は完全に「画になるか」だけには収まらない。離縁の理由、兄との緊張、野武士との関係は、断片だけで示される。これは意図的な省略とも読めるが、理論の側から見ると、「非人情でいられなかった」という敗北を、画工が自分の言葉で受け止める場面が弱い。結末の叫びが気持ちよいぶん、そこまでの理屈がどう変わったのかは曖昧なままだ。

周辺人物が背景にとどまり、終盤の戦争が唐突に見える

久一さんの出征は、作品の外にある日露戦争を一気に呼び込む。ところが久一さんは、それまで人物としてほとんど立ち上がっていない。舟の上で、出征する本人は短い返事をするだけで、「泣きそうな顔」と地の文が補う程度だ。老人や兄も同様に、役割を果たすだけの位置にいる。その結果、見送りの場面は強いのに、その場にいる誰の痛みが描かれているのかが見えにくい。

汽車についての文明批評も、「汽車ほど個性を軽蔑したものはない。」と鋭い反面、画工が茶店で蓬餅を食べながら考えるだけで、物語とは独立している。論として切れ味はあるが、小説の流れを止める。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

向いているのは、筋よりも文章そのものを味わえる人、漢詩文や画の話に抵抗のない人、そして「物語の外側にある思想」を読むのが好きな人だ。冒頭だけでも、日本語の名文を求める人には十分な価値がある。

逆に、事件や恋愛の展開を求める人、一気読みで満足したい人には勧めにくい。最初の章と最後の章だけでも「草枕」の骨格はつかめるので、挫折しそうなら、冒頭と終盤の川舟から停車場までを先に読んで、中盤は拾い読みでもいい。

漱石をさらに読むなら、芸術論の対極にある現実の恋と罪を描いた「それから」の感想や、都会の青年の迷いを追う「三四郎」の感想が、「草枕」の裏返しとして読み比べやすい。筋の分かりやすさを求めるなら「坊っちゃん」の感想から入るほうが安全だ。