結論:恋が実らない配置は見事。ただし語り手が便利屋として使われる、静かに残酷な長編
森鴎外の「雁」は、恋愛小説の顔をして、恋愛が一度も成立しない小説だ。見つめ合うだけの二人を、坂道と散歩の時刻と一羽の雁で配置し直し、最後に「青魚の未醤煮」という笑ってしまうほど小さな理由で引き離す。この構図の冷たさは明治末の作品とは思えない切れ味がある。
ただし、書き手の目で見ると、その構図を成立させるために語り手の「僕」がかなり無理な働きをさせられている。長編を読み慣れた人には面白く、盛り上がる恋愛劇を期待した人には肩透かしになる作品だ。
最小限のあらすじ
明治十三年、東大近くの下宿屋・上条。語り手の「僕」は、壁一つ隔てた隣室の医学生・岡田と、古本屋で顔を合わせるうちに親しくなる。岡田の散歩道の無縁坂には、高利貸・末造に囲われた妾のお玉が住み、窓越しに会釈を交わすようになる。お玉は、世間の目を気にするあまり岡田に声をかけられないまま、日々だけが過ぎていく。
※ここから結末に触れます。
「雁」の独自の深掘り:岡田が石を投げた意味と、語りの二重構造
岡田が雁に石を投げる場面は何を象徴しているのか
題名の「雁」が実際に出てくるのは、終盤の第二十二章の末尾から第二十三章だ。不忍池の岸で、柔術に凝る石原が池の雁を指して「あれまで石が届くか」と岡田に尋ねる。岡田は「あれはもう寐るのだろう。石を投げ附けるのは可哀そうだ」と一度ためらう。石原が「そう物の哀を知り過ぎては困るなあ」と笑うと、「そんなら僕が逃がして遣る」と言って投げる。ところがその石は一羽に当たってしまう。
ここで大事なのは、岡田が殺意を持っていないことだ。窓の女に毎日会釈をしながら、相手が何を思っているか知ろうともしなかった岡田の態度と、狙いもしなかったのに命を奪う石は同じ形をしている。岡田は後で「僕は只雁のいる所を狙って投げたのだがなあ」とこぼす。悪意のない無自覚が、誰かを傷つけてしまう。お玉と岡田の関係を一言で言えば、この石に尽きる。
鳥の死は第十九章前後の「蛇と鳥籠」の場面とも呼応している。お玉の鳥籠を襲った蛇を、岡田は出刃庖刀で両断して小鳥を助けた。助けた鳥と殺してしまった雁。同じ男の手が、救うときも殺すときも「なんとなく」動く。この対比は、作者が意図して仕込んだものと見て間違いない。
青魚の未醤煮が運命を変える「釘一本」の構造は成功しているか
第二十二章の冒頭で語り手は、西洋の子供の本の「釘一本」の話を持ち出す。車輪の釘が一本抜けたために、乗った百姓の息子が難儀に遭うという筋だ。そして、自分が語る物語では青魚の未醤煮が同じ働きをする、と宣言する。語り手は寄宿舎の食堂の記憶から青魚が大の苦手で、夕食に出た膳を避けて、岡田を散歩に誘う。その結果、お玉が待ち構える日に二人が坂道を通るのだが、岡田は目を伏せて足早に通り過ぎる。
末尾の「一本の釘から大事件が生ずるように、青魚の煮肴が上条の夕食の饌に上ったために、岡田とお玉とは永遠に相見ることを得ずにしまった」という一文は、この小説でいちばん性格が悪く、いちばん冴えている。運命が悲劇的な必然ではなく、単なる食べ物の好き嫌いで決まる。恋愛小説の湿度を一気に抜く、乾いた一撃だ。
ただしこれは諸刃の剣でもある。偶然を物語の主役にするなら、その偶然に読者が納得する下準備が要る。この点は後半の欠点の節で触れる。
末造という高利貸の人物造形がなぜ「悪役」になりきらないのか
語り手が詳しく語る末造の過去は、大学の寄宿舎の小使いから始まる。学生に五十銭、一円と立て替えるうちに証文を書かせ、高利貸になった男だ。ここまでなら典型的な守銭奴の出世譚だが、鴎外は途中で人物論を挟む。小説や芝居に出てくる守銭奴は絶対的な吝嗇家ばかりだが、実際に金を溜める男は「どこかに一つ穴を開けて、息を抜くようにしている」ことが多い、と。末造にとっての穴は、身なりと女だ。
この一節のおかげで、末造は憎まれ役の記号にならず、小綺麗な唐桟を着て、お玉との初対面の場を「ふいと晴がましい」祭りのように感じる、どこか滑稽な男になる。後の章で彼が朝、寝起きのお玉の顔を見て「情愛が分かって来たのだ、自分が分からせて遣ったのだ」と得意になる場面は、痛々しいほど惨めだ。お玉の変化の理由は岡田への思いにあるのに、末造は見事に取り違えている。悪役を作らず、勘違いする男として書いたことで、この小説は単純な勧善懲悪から救われている。
「実体鏡」の比喩で語られる、見た話と聞いた話の合成
語り手は結びで、前に見たことと後に聞いたことを「実体鏡の下にある左右二枚の図」に例える。岡田と親しかった自分の目で見た半分と、岡田が去った後に偶然お玉と知り合って聞いた半分を、重ね合わせて物語にしたというのだ。この断り書きは、作者自身が「この小説は語りの仕組みで読め」と案内している箇所だと思う。ただ、この仕組みには代償がある。次の節で触れる。
「雁」の忖度なしの欠点・違和感:語り手の不自然さと、偶然に頼った結末
「僕」が知り得ないはずの内面描写が多すぎる
最大の違和感はここだ。語り手は自分の見聞と、後から聞いた話を合成したと言うが、お玉が岡田に声をかけられず火鉢の前で悶々と考えるくだりや、末造が夜中に二軒の借家のどちらにするか独り言で長々と考えるくだりは、もはや「聞いた」で説明がつく分量と細かさではない。末造に至っては、お玉を妾にする前の夜の独り言まで、口調ごと再現されている。語り手が末造の頭の中をこれほど細かく知る経路は、私が読んだ範囲の作中には示されていない。
これを「小説の約束事」として許すことは可能だ。ただ、結びで「実体鏡」という精密な比喩を出して語りの仕組みを自分で示している以上、その仕組みの内側で矛盾が起きているのは、書き手としては見過ごせない。「僕」という一人称の枠が、結局は便利な神の視点として使われてしまっている。
語り手の「僕」が、肝心の場面で何もしない
第二十二章で、お玉は窶れていても美しく、いつもと違う輝きで坂に立っている。「僕」は岡田の肘を突いて「おい、いるぜ」と声をかけ、坂下では「凄い状況になっているじゃないか」と冷やかす。そのくせ内心では「自分を岡田の地位に置きたい」「僕は岡田のように逃げはしない」と、あの女を救い出す空想に浸っている。この自己認識の描き方は、人間の見苦しさを正確に突いていて面白い。
ところが、その空想は空想のまま終わる。語り手は、あの女が末造の妾だと岡田より先に知っていた。岡田が洋行を打ち明けた後も、お玉が岡田を待っていそうだと感じていた。それなのに石原の雁の件に付き合い、何ひとつ岡田に告げず、翌日には岡田は去っている。事情を一番知る人物が一番動かないのは、悲劇を成立させるための配置に見え、この人物の使い方は都合がいい。
偶然の悲劇に対する下準備が足りない
青魚の話は、笑いと苦さの両方を生む巧い仕掛けだと前に書いた。ただ、同じ日に、末造が千葉へ行き、梅が実家へ泊まり、お玉が髪結いに行く条件が揃う前提がある。お玉は「きょうは思い切って物を言い掛ける」と決意している。つまり、お玉にとっては必然の一日で、岡田が洋行を決めたのも同じ頃だ。必然と必然が偶然で衝突するから悲劇になる設計だとは分かる。しかし読後に残るのは、「その偶然が起きなくても、結局お玉が声をかけられたかどうかは怪しい」という感覚だ。お玉は掃除をするふりをして挨拶に声が出ず、その後も何週間も接近できなかった。偶然に責任を負わせることで、お玉自身の逡巡が見えにくくなっていないか。
結びの「無用の臆測をせぬが好い」という弁明が興ざめ
語り手は最後に、お玉の情人になる要件は自分に備わっていないと明言し、「読者は無用の臆測をせぬが好い」と言い放つ。ここまで語り手の欲望を覗かせてきた作品としては、これは野暮だ。自分から胸の内を書いておいて、最後に「読むな」と突き放すのは、語りの誠実さを損ねる。しかもお玉と知り合った経緯は「物語の範囲外」と片づけられる。読者がいちばん知りたい部分ほど、語られない。この作り方は小説全体の余白として読めなくもないが、前半の長い助走と釣り合っているかは疑問が残る。
末造パートの長さと、岡田の薄さ
全二十四章のうち、肆から陸あたりの末造の過去とお玉を妾にするまでの経緯は、情報が詳しく、人物の厚みを出している反面、物語の推進力はかなり落ちる。お玉の父が語る生い立ちの長台詞も、親子の愛情を伝える役割は果たしているが、同じ内容を何度か別の角度から書いている印象がある。逆に、タイトルの主役級であるはずの岡田は、出てきた当初に「均衡を保った書生」と描かれたあと、本人の内心がほとんど見えない。恋の相手側が空洞なので、お玉の恋が「欲しい物」から「買いたい物」へ変わる心理分析の鋭さが、受け止める相手のいない空振りにも見える。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
- 大きな事件が起きない恋愛小説、結ばれないことそのものを主題にした作品が好きな人
- 偶然が運命を決める皮肉な構図や、語りの仕組みを分解するのが好きな人
- 鴎外の他作品を読んだ人。エリートの失敗を描く舞姫や、静かな倫理の問いを置く高瀬舟と読み比べたい人
逆に、感情が高まる展開やはっきりした決着を求める人には向かない。約7万5千字の長さのうち、読者が待つ瞬間はほぼ最後の数ページにしか来ないからだ。それでも、お玉の目線の描写や青魚の一文、雁の死の場面を押さえておけば、読んだ後に長く残る小説になる。



