結論:冒頭の一章と神隠しの章だけで元が取れる。残りは「論文になりきれないメモ」を読む覚悟が要る
三十章ある柳田國男の「山の人生」は、見せ場が最初の一章と神隠しを扱う中盤の数章に偏った本だ。そこだけなら傑作と言っていい。ところが全体を通して読むと、事例の山に論の背骨が通っておらず、読者は途中で迷子になる。柳田國男の民俗学の入口として一冊目に勧めるのは難しく、「遠野物語」を読んで、もっと奥へ行きたくなった人向けの本である。
最小限のあらすじ
「山の人生」は小説ではなく、山に消えた人々、山に住む人々の話を集めた民俗学の本である。初出は「アサヒグラフ」の連載(1925年1月〜8月)で、後に加筆して一冊にまとめられた。冒頭では、西美濃の炭焼きが飢えた二人の子を斧で殺した事件と、滝に身を投げた親子三人の悲劇が語られる。続いてサンカ、山に入って戻らない男女、産後に発狂して山姥になった女、神隠しにあった子供、山男の足跡や大草履が、三十の章に分けて並べられる。著者が問うのは、日本人はなぜ山に消えるのか、そしてその山には何がいたのか、ということだ。
柳田國男「山の人生」の魅力は?神隠しの実話と書き出しの凄み
書き出しの「山に埋もれたる人生」はなぜ忘れられないのか
第一章の語り口は、民俗学の本のそれではない。炭が売れず、空手で山小屋に戻った男が、腹を空かせた子供の顔を見るのがつらくて昼寝をしてしまう。目が覚めると夕日の中で二人の子が斧を磨いており、「阿爺、これでわしたちを殺してくれといったそうである」と言う。この一文は又聞きの形で、伝聞のかたちを崩さない。感情の説明を一切足さないので、かえって取り返しのつかなさだけが残る。
注目すべきは、柳田がこれを「今自分の説こうとする問題と直接の関係はない」と断ったうえで、序文の代わりに置いたことだ。そして「我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い」と締める。本編の山人論より、この一章の方が強く読者の記憶に刺さる。本の主題とは無関係のはずの話が、結果としては一番の主題になってしまっている点が面白い。
神隠しの章:天井にどしんと落ちてくる少年の話が怖い理由
第七章から第九章の神隠しは、この本の本領が出た部分だ。柳田は「二日も三日も捜しあるいて、いかにしても見つからぬというのが神隠し」と、まず定義を切り分け、その上で鉦太鼓で子供を探す習俗を「本来捜索ではなくして、奪還であった」と読み替える。理屈が一行で腑に落ちる、気持ちのいい分析である。
事例も強い。愛知の山間で白餅を口のまわりにつけた少年が、行方不明の後に天井裏へどしんと落ちてくる。金沢の青年も、同じように天井裏で見つかり、「また行かねばならぬ」と駆けだそうとする。別々の土地の話が、天井、餅や御馳走、連れて行く者という同じ型でそろっている。怪談として読んでも一流で、しかも柳田は怖がらせることを目的にせず、型の一致のほうを見ている。
さらに第九章では、柳田は自身の体験まで差し出す。七歳のときの夜に見知らぬ男に抱えられた件、四歳のときに「神戸の叔母さん」のところへ行くと言って一人で歩いた件である。「私自身なども、隠されやすい方の子供であったかと考える」という一文は、資料を集める側の人間が自分を資料の側に置いた、珍しい瞬間だ。この一次情報があるから、神隠しの章は他の事例集と一線を画す。
産後に山へ入る女と「山の神への嫁入り」:人はなぜ山へ向かうのか
第五章と第六章は、この本の中で一番読み返したくなる箇所だ。山姥の話は昔話ではなく当時の事実譚だったと柳田は言う。尾州の百姓の妻が産後に発狂して山に入り、十八年後に裸で腰に草の葉を巻いて戻ってきた。帰った家では身内の誰も本人と気づかず、怖がって騒ぐので、女は再び山へ戻る。この「元の自分であることを知らない」という一点が、伝説を急に生身の悲劇にする。
柳田はここから、山へ入る女に産後の者が多いことを「非常に大切な問題の端緒かも知れぬ」と指摘し、巫女が神の子の母であるという信仰へ視線を伸ばす。さらに、山の神のところへ嫁に行くのだと口癖のように言っていた北秋田の娘や、供を帰して湖の底へ入った奥方の伝承を並べて、「欣然として自ら進んで」山へ入った者の存在を示す。被害者として語られがちな山姥に、本人の意思があった可能性を置くのは大胆で、現代の読者にも考える材料が多い。ただしここも断定は避けていて、論の深さはそのぶん読者に預けられている。
※ここから結末に触れます。
最終章の「餅」は何を言っているのか:山人と餅と信仰の話
最終章「これは日本文化史の未解決の問題なること」で、柳田はまず「ここで打切ってはもちろんこの研究は不完全なものである」と認める。そして天狗の信仰の背後に、山人と接した現実の経験があったはずだと述べ、最後は加賀の松任の餅屋のように、天狗の訪問を受ける家の話に進む。結論は意外なほど具体的で、「餅ほどうまい物は世の中にはないと考えた凡俗」が神に餅を供える発想と、餅の香を愛した山人の話がつながる。「これを下品だとして顧みないような学者は、いつまでも高天原だけを説いているがよい」という啖呵つきだ。
学者に対する挑発としては痛快である。ただ、論証というより、読者を食べ物の実感から信仰の起源へ連れ出す手つきだと受け取るほうが誠実だと思う。ここは「山人は実在した」という主張を読むのではなく、「神様の顔つきを、人はまず食べ物から想像した」という洞察を持ち帰ればいい。
山の人生の欠点は?山人説の根拠の弱さと三十章の散らかり
「面白そうだがよく解らぬ」を著者自身が認めている構成の問題
自序に、連載を読んだ友人の評が出てくる。「面白そうだがよく解らぬ」。柳田は書き足せば分かりやすくなると考えて単行本にしたが、書いているうちに「切れ切れの追加をする方法の、不適当であることが顕著になった」と認めている。つまり、構成が散らかっていることを、著者が最初に白状している本なのだ。
実際、第一章の悲劇から第二章のサンカ、第三章の遁世、第四章のマタギと進む流れは、連想でつなげた印象が強い。章題は整っていても、一つの章が次の章を必要とする必然がない。順番を入れ替えても大きくは困らない。推理小説なら、伏線もなく話題が移る中だるみとして指摘される作りである。その自覚があるぶん責める気にはならないが、読者の負担が軽くなるわけではない。
伝聞だらけの事例と「見間違い」で片づける姿勢の揺れ
事例の多くが「誰々君の報告」「誰々氏談」である。佐々木喜善、徳田秋声、南方熊楠と名前は豪華だが、一次の目撃者はほぼ出てこない。柳田自身、山男の大草履の話を「誇張妄誕といわんよりも、むしろ幻覚であったかと思う」と整理し、「全体に今ではもう話になりすぎている」と冷静に突き放す。この姿勢は信頼できる。
しかし、その冷静さが山人そのものには向かない。草履や天狗倒しの音は幻覚と処理するのに、山の通路や足跡の話になると、山人の存在を前提に議論が進む。懐疑と好意の線引きが、書き手の都合で揺れているように見える。創作者の目で言えば、信頼できない語り手に最後まで付き合わされている感覚が残る。
章ごとの密度の差:山男の草履と足跡の長い列挙は読み続けにくい
後半、山男の草履や通り道、大人の足跡の章(第二七章から第二九章)に入ると、事例の列挙が長く続く。駿河の山男、アサリ仙人と呼ばれた老人、各地の「三尺の大草履」と、細部は確かに面白い。けれども一つひとつが問いに答えるための材料というより、集まった資料をそのまま並べたように見える。第二八章では、山人の草履は魔除けだったのではないかという仮説が出てくるが、「山人が気の利いた才覚を持つとは思えない」とすぐに自分で打ち消してしまう。仮説が立ち上がりかけては消え、読後に残るのは「分からない」という感触だけだ。神隠しの章が強いだけに、この落差が目立つ。
山人=先住民説とサンカの扱いは今どこまで読むべきか
巻末に併録された講演稿「山人考」は、山人を日本の先住民とし、絶滅に至る道筋を六つに整理する。見取り図としては明快だが、根拠は伝承と目撃談で、現在の考古学や人類学の知見に照らして支持される説ではない。さらに本編のサンカの記述は、聞き書きに基づく一般化が多く、特定の人々への先入観を含んでいる。当時の民俗学が持っていた限界として、距離を置いて読むべき部分である。
この本の価値を、山人説の正否で測るのは間違いだ。測るべきは、人が山に消えたとき、周囲がそれをどう受け取り、どんな手順で取り戻そうとしたか、という記録の質である。そちらは今も色あせていない。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
「遠野物語」を読み、あの短い話の背景にある慣習や信仰をもっと知りたくなった人には、これ以上ない続編だ。「遠野物語」の感想はこちらにまとめている。柳田自身が本文中で山神の話に「遠野物語にもその話は筆録しておいた」と触れており、二冊は地続きで読める。
一方で、最初から通読するのは勧めない。おすすめの順番は次のとおりだ。
- まず第一章を読む。ここだけでも数ページで済む
- 次に第五章(産後に山へ入る女)と第六章(山の神への嫁入り)
- そして第七章から第九章の神隠しを通して読み、最後に第三十章で締める
この順なら、散漫な構成のストレスをほとんど感じずに、この本の一番良い部分だけを持ち帰れる。逆に、体系的な論証や、一本の物語としての読後感を求める人には向かない。その場合は、この本は「読み物」ではなく「資料集」だと割り切るのがいい。

