遠野物語の感想ネタバレ|119話の怪談集は読みにくい?

結論:怪談の原石を119個並べた記録。小説のつもりで開くと置いていかれる

柳田國男「遠野物語」は、岩手の遠野郷に伝わる話を番号つきで並べただけの本だ。そのうち十数話は、現代のどんなホラーにも負けない異様な怖さを持っている。一方で、起承転結のある「物語」を期待して頭から順に読むと、地名と家名と注釈の連続に挫折する。

傑作かどうかで言えば、民俗の記録としては疑いなく一級だ。ただし、読み物として誰にでも勧められる本ではない。怖い話だけを拾い読みする覚悟があれば劇薬になり、小説の続きを求める人には不親切な本になる。

最小限のあらすじ

遠野出身の青年・佐々木鏡石が語った話を、柳田が明治42年(1909年)の2月ごろから夜ごとに聞いて筆記した。それをまとめて、1910年(明治43年)6月に出した。山男や山女、ザシキワラシ、河童、マヨイガ、死者の訪問などの話が、第1話から第119話まで並ぶ。主人公も筋もない。読者の課題は、この断片の山からどの話を自分のものにするかだ。

独自の深掘り:遠野物語はなぜ怖いのか、どこが優れているのか

「一字一句をも加減せず」が生む、感情を挟まない文体の怖さ

序文で柳田は「自分もまた一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり」と宣言している。この方針が、本文の怖さの核になっている。

たとえば第3話。猟師が山の岩の上で、長い黒髪を梳く美しい女を撃つ。倒れた女の髪を切り取って懐に入れて帰る途中、眠気に襲われ、夢うつつのうちに背の高い男が現れて、その髪を取り返していく。目が覚めると髪は消えている。話は「山男なるべしといえり」で終わる。恐怖も教訓も説明も付かない。語り手は「らしい」と言うだけで、読者は意味づけを自分でやらされる。

第22話の「丸き炭取なればくるくるとまわりたり」も同じ種類の怖さだ。亡くなったばかりの老女の亡霊が、通りすがりに炭取に裾を触れる。幽霊の姿や表情ではなく、炭取がくるくる回るという物理的な一点だけを書く。この削り方は、創作をする側から見ても学ぶところが大きい。恐怖を盛り上げる形容詞が一つもないのに、情景は目に焼きつく。

ザシキワラシと孫左衛門の家:話が連なると「家の没落譚」になる

断片集に見えて、いくつかの話は隣り合って連作になっている。第17話から第21話が代表例だ。ザシキワラシの目撃談から始まり、山口孫左衛門の家の童女の神が、よその家に去っていくのを見た男の話になる。「さては孫左衛門が世も末だなと思いしが」と男は思い、実際に主従二十数人が茸の毒で一日のうちに死に絶える。

その後に、蛇を殺して埋めた前兆(第20話)と、狐を手なずけて家を富ませようとした孫左衛門の変人ぶり(第21話)が続く。つまり、神が去る、一家が死ぬ、前兆があった、その家の主人はこんな男だった、という順で配置されている。時間を前後させて因果を匂わせる、短編小説並みの構成だ。しかも柳田は、生き残った7歳の女の子が遊びに夢中で昼飯を忘れたから助かった、という細部を書き落とさない。神の気まぐれと偶然の残酷さを同時に感じさせる、見事な処理だと思う。

マヨイガの「無欲」が条件になる、説話としての完成度

第63話のマヨイガは、遠野物語の中でいちばん物語の形が整っている。蕗を採りに谷へ入った女が、人の気配のない立派な家に行き着く。膳椀が並び、鉄瓶の湯が沸いているのに誰もいない。怖くなって逃げ帰る。後日、川上から赤い椀が流れてきて、それで米を量ると、いくら量っても米が尽きない。話の締めは「女が無慾にて何ものをも盗み来ざりしが故に」椀のほうから流れてきた、という解釈だ。

見せ場は、家の中のものを持ち出せば長者になれるのに、持ち出さなかった人間のところへ富が来る、という逆転にある。続く第64話では、同じ家に行き当たった婿が人を引き連れて探しに行くが見つからず、金持ちにもならない。欲を出して探した人は何も得られない。2つの話を並べることで、教訓を書かずに教訓を成立させている。

※ここから結末に触れます。

津波で死んだ妻に出会う第99話:この本でいちばん後を引く一話

全119話のうち、読後に最も残るのは第99話だと思う。海岸の田の浜へ婿に行った福二は、先年の大海嘯(津波)で妻と子を失う。1年ほどたった夏の初めの月夜、霧の中から男女が近づいてくる。女は亡くなった妻で、男は津波で死んだ同じ里の者、しかも福二が婿に入る前に妻と深く心を通わせたと聞いていた相手だった。

「今はこの人と夫婦になりてありというに、子供は可愛くはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり」。幽霊が出た怖さよりも、この泣き顔のほうが痛い。福二は追いかけ、夜明けまで道に立ち尽くし、その後長く寝込む。ここで柳田は感想を一行も挟まない。大災害の後の、生き残った者の喪失と嫉妬と未練という、複雑な感情の全部が、泣くという動作に畳み込まれている。

忖度なしの欠点・違和感:遠野物語が読みにくい、つまらないと言われる理由

序盤の山男・山女の連打で、一冊の山場を早く使いすぎている

構成の甘さを挙げるなら、まず配置だ。冒頭は地勢の説明が続き、第3話から第7話は山男と山女に出会う話で固めてある。さらわれた長者の娘が「子もあまた生みたれど、すべて夫が食い尽して」と語る第6話や、さらわれて子を産んだが「我に似ざれば我子にはあらず」と言って子を持ち去られる第7話は、確かに強烈だ。

ただ、似た型の話が連続するため、読者の驚きは第5話あたりで摩耗する。神隠し、山男、猟師、女。この型を5連発した後、第12話の老人の昔語り、第13話の甘酒売りの老人と、読みどころの薄い人物紹介が続く。冒頭で一番強い札を切ってしまい、中盤が間延びする。一冊を通して読ませる設計としては、起伏が足りない。

地名・家名・小字の氾濫と、本文より長い注釈

最大の障壁は固有名詞の密度だ。「土淵村大字山口」「栃内村和野の佐々木嘉兵衛」のように、ほとんどの話が村名・字名・家名で始まる。しかも文語体なので、遠野の地理を知らない読者は、地名が出るたびに足が止まる。

さらに、本文より注の方が長い話がある。第112話のダンノハナ・蓮台野・蝦夷屋敷の説明や、土器・石器の記述は、民俗学の資料としては貴重だが、物語としては読み物の流れを止める。第80話と第83話に至っては、家の見取り図を前提に話を理解せよという指示すらある。これは「怪談集」を期待した読者への、はっきりした裏切りだと思う。

「語りの魅力」が消える部分と、柳田の姿勢の矛盾

もう一つの違和感は、序文の宣言と本文の落差だ。語りの現場を再現するなら、佐々木鏡石の声や聞き手の驚きが少しは入ってもいいはずなのに、本文は驚くほど均質な文体で貫かれ、誰が語っても同じ調子になる。その結果、第12話の乙爺のように「年頃遠野郷の昔の話をよく知り」ながら「あまり臭ければ立ち寄りて聞かんとする人なし」と言われる語り手の生身の存在感が、他の話ではほとんど消えている。

この乙爺の一節は、本全体に対する皮肉にも読める。話はよく知っているが、聞く人がいない。作者は聞き手になったが、その聞き手の態度を作中ではほとんど見せない。完全な客観を目指した結果、本そのものが「資料」に見えてしまうのが惜しい。

注釈の「脱線」が、時に作品の怖さを打ち消す

柳田が付けた注には、読者の想像力を逆に邪魔するものがある。たとえば第22話の亡霊の話には、「マーテルリンクの『侵入者』を想い起こさしむ」という一行が付く。博識の披露としては面白いが、せっかく炭取の回転で止まった空気が、外国戯曲の連想で一気に緩む。第58話の河童の注の「何の故にか」という問いかけも、答えを書かないまま話を終わらせている。研究者としての好奇心が、怪談としての余韻を削いでいる場面だ。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

向いているのは、怪談を「理由抜き」で味わえる人と、小説を書く人だ。説明をそぎ落とした文章で恐怖を作る技術は、そのまま創作の教材になる。また、東北の民俗や妖怪の原型に興味がある人は、ザシキワラシ、河童、オシラサマ(第69話)が、最初はどんな語りだったかを確かめられる。

逆に、起承転結や登場人物の成長を求める人は避けたほうがいい。頭から通読するより、次の順番で拾い読みするのをすすめる。

  • まず第8話(サムトの婆)と第22話(炭取)で、文体の怖さを確かめる
  • 次に第17話から第19話(ザシキワラシと孫左衛門の家)と第63話(マヨイガ)で、話の組み立てを味わう
  • 最後に第99話(津波の後の妻)と第11話(鎌を研ぐ息子)を読む

第11話は、息子が母を大鎌で斬る、事件として語られる話だ。その母が血まみれで「孫四郎は宥したまわれ」と言う場面は、ここだけで一冊分の重みがある。ここまで読んでから最初に戻ると、固有名詞の山も、いくらか読めるようになる。青空文庫版は約4万字と短い。だからこそ、全部を読み通すより、強い話を先に選んで読むのが賢いやり方だと思う。