吉川英治「三国志」感想ネタバレ|孔明の死後が一番面白い

結論:入口は一級品、終盤は「孔明の万能」が物語を痩せさせる。それでも日本語の三国志の基準点だ

吉川英治の「三国志」は、日本人が三国志を読むときの「標準の語り」を作った長編だ。冒頭の劉備の登場は読者を一瞬でつかむ上手さがあるが、終盤の五丈原は孔明が死んでもなお孔明の計算だけで事が運ぶため、人間のドラマとしては痩せていく。三国志を初めて読む人には最適、人物の矛盾や弱さまで読みたい人には物足りない作品だ。

なお本稿は、全12巻のうち冒頭の「桃園の巻」と結末の「五丈原の巻」を精読し、全体の構成を確認した上で書いている。中盤の戦記を逐一なぞる文章ではないことを、先に断っておく。

最小限のあらすじ

後漢の末、黄巾賊が各地で略奪を働く乱世。蓆を織って母と暮らす青年・劉備は、漢の民を興すと黄河のほとりで天に誓う。やがて仲間を得て乱世に乗り出し、軍師・諸葛孔明を得て蜀を立てるが、孔明は魏との北伐の途中、五丈原の陣中で病に倒れる。物語は、孔明が死んだあと、その死をどう隠し、どう蜀軍を帰すかで幕を閉じる。

※ここから結末に触れます。

吉川英治「三国志」の魅力と構成を分析する:冒頭の劉備と、孔明の死の描き方

「茶を買う青年」から始める冒頭が上手い理由

第一巻は、剣を佩いた旅人が黄河のほとりに座り込んでいる場面から始まる。英雄の名乗りでも合戦でもない。「どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか」と水を眺めている青年だ。ここで吉川は、黄土が中央アジアから吹いてきた沙であること、漢民族がその沙の大地を拓いてきたことを、劉備の視線を通して数行で説明してしまう。舞台説明と主人公の人柄を同時に済ませる、新聞連載ならではの手際のよさだ。

続く場面で、劉備が待っていたのは洛陽船。目当ては、母の好物の茶だ。二年かけて貯めた銀を差し出し、足りない分は剣の緒の琅の珠を添えて、錫の小壺ひとつと替える。天下を語る前に、まず母のための買い物をする。この順番が、劉備という人物の「徳」を説教抜きで読者に信じさせる。

しかもその夜、村は黄巾賊に襲われる。劉備は剣に手をかけて飛び出しかけて、思い直す。母がいる、一剣の勇では百人の賊を斬っても天下は救われない、と。ここは英雄を最初から無敵にしない、よい抑制だ。勇ましさより「一人の民の無力」から入るので、後に彼が人を集める説得力が出る。

孔明の死の場面は、なぜ読ませるのか

最終盤の山場は、孔明の死と、その後の「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の一章だ。孔明は病床で、四輪車に乗って陣中を巡見する。「ああ。旌旗なお生気あり。われなくとも、にわかに潰えることはない」と安堵し、帰途に天を仰いで「人命何ぞ仮すことの短き。理想何ぞ余りにも多き」とつぶやく。

この独白の効きは、直前まで孔明が遺言を整然と並べているからだ。費禕には劉禅の補佐を、姜維には兵法の秘伝を、馬岱には兵馬を、と後事を割り振る。それを終えた人間が漏らす一言だけが、計算の外にある。孔明が初めて「人」に戻る瞬間で、この一行のために遺言の長い列挙が置かれている、と読める。

そして喪を秘し、等身大の木像を四輪車に乗せて魏軍を退ける。ここまで来ると読者が聞きたいのは理屈ではなく、「あの司馬懿がどんな顔で逃げるか」だ。実際、司馬懿が孔明の車を見て「仰天」し、馬の尻に鞭を加え続けて五十里も駆けた末、夏侯覇兄弟に追いつかれて、ようやく息をつく描写は、ほとんど喜劇に近い。読者が長い間、孔明に押されていた側として溜め込んだ鬱憤を、一気に抜く設計になっている。

司馬懿の「一言」が、この小説でいちばん苦い

木像の計に敗れた司馬懿は、後に孔明の旧陣を見て回る。出入りの跡も営も、みな整然と法にかなっている。そこで彼が呟くのが「真に、彼や天下の奇才。おそらくこの地上に、再びかくの如き人を見ることはあるまい」だ。

この賛辞を、最後まで勝てなかった敵に言わせるのが巧い。蜀の人々の嘆きは「身内の悲しみ」として読めてしまうが、敵の称賛は事実の裏付けに見える。孔明の偉大さを、味方の言葉ではなく敵の言葉で締める構成は、作者自身が孔明に惚れ込んでいることの裏返しでもあるが、読み物としては確かな効果がある。

吉川「三国志」の欠点と違和感:五丈原の結末が物足りない理由を書く

死んでもなお勝ち続ける孔明は、物語の緊張を殺す

最大の弱点は、孔明の死後にも「孔明の計算」だけで勝負がつくことだ。魏延が謀反を起こすと見越して、孔明は生前に錦の嚢を楊儀に託しておく。封には「魏延、叛を現わし、その逆を伐つ日まではこれを開いて秘力を散ずるなかれ」と書かれている。魏延が反乱し、嚢を開き、孔明の策どおりに事が運ぶ。この一連が、読者の予想をまったく裏切らない。

伏線と回収のうまさとは言いにくい。回収が予定調和であるうえ、孔明が死んだ後でも「すべてを見通していた」という保証が、物語から意外性を奪うからだ。創作の側から言えば、これは「先に答えを決めてある人物」の造形で、読者は孔明の死に涙しながら、同時に「どうせ孔明の用意が効くのだろう」と先を読んでしまう。

魏延の最期が「悪役の処理」で終わってしまう

魏延は、孔明の死後に蜀軍を割る人物として描かれる。夢で頭に角が生えたと気にかけ、趙直には吉夢と言われて喜ぶが、実は趙直が、角の字は刀を用いると書くから首が落ちる凶夢だと思いながら、恨まれないために適当に話を合わせていた、という挿話がある。この小さな皮肉は面白い。

ところが肝心の最期は、楊儀の挑発に乗って「誰か俺を殺し得んや。――誰か俺を殺し得んや。――おるなら出て来いっ」と三度叫んだところを、背後の馬岱が「ここにいるのを知らぬか。――それっ、この通り殺してやる」と斬る、という展開だ。劇としては痛快だが、魏延の側の事情はほとんど掘られない。孔明が生前から「謀反する」と予言し、馬岱に秘策まで授けてあるので、魏延は最初から運命に従うだけの駒になっている。「自分は孔明の下で終わる器ではない」という葛藤を、悪役の自惚れとしてしか書かないのは、人物造形の損失だ。

地の文の「解説」が、場面の熱を冷ます

孔明の死の直後、物語は一度止まり、「孔明の死する前後を描くにあたって、原書三国志の描写は実に精細を極めている」と、作者が解説を始める。さらに、息を引き取った後に勅使が着いてまた目を開いたという原書の描写について、「その不合理などを問わず原書のままを訳しておく」と断る。誠実ではあるが、読者が最も泣きたい瞬間に、翻案者の注釈が挟まる。

この小説の魅力は、新聞連載の熱量で一息に読ませる語り口にあるはずだ。その熱を保つなら、不合理は黙って整理して書くほうが、小説としては強かっただろう。逆に、注釈を挟むなら、徹底して読み物の外から語る構成にすべきで、中途半端に顔を出す今の形は、語りの位置が定まっていない。

いい人すぎる劉備が、乱世の毒を薄める

冒頭で「人間あっての宇宙だ。人間がない宇宙はただの空虚ではないか。」と天に向かって叫ぶ劉備は、立派だが、少々まっすぐすぎる。母のために茶を買い、民のために天へ誓う。この高潔さが後の巻でどれだけ揺れるのかが読みどころのはずだが、少なくとも第一巻の段階では、劉備に「迷い」を与えるのは母への孝心だけで、善悪の天秤がほとんど揺れない。善玉・悪玉をはっきりさせる講談調の強みである反面、乱世の複雑さを知りたい読者には、輪郭が単純すぎる。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

三国志を初めて読む人には、迷わず勧められる。全12巻(序、桃園の巻、群星の巻、草莽の巻、臣道の巻、孔明の巻、赤壁の巻、望蜀の巻、図南の巻、出師の巻、五丈原の巻、篇外余録)という巻立ては、劉備の旗揚げから孔明の死までを一直線に追える。確認した二巻だけでも、各巻が約16万字、約18万字と相当に重い。通読は覚悟がいるが、章が短く区切られているので、少しずつ読み進めやすい。

  • 三国志の筋を、まず日本語の読み物として一通り知りたい人
  • 孔明の知略、司馬懿との知恵比べを、痛快な娯楽として楽しみたい人
  • 講談調・新聞連載調の、勢いのある語りが好きな人

逆に、魏延のような「負け役」にも事情があり、孔明にも判断の誤りがあるという、人物の揺れを読みたい人は、この小説だけで満足しないほうがいい。同じ吉川英治なら、一人の剣士の内面を長く追う「宮本武蔵」のほうが、人物の変化を読む楽しみは大きい。ただ、あちらも長さとの付き合いは必要になる。

初出は新聞連載で、1939(昭和14)年に連載が始まり、1943(昭和18)年まで続いたと出版社の資料などで紹介されている。青空文庫では講談社の吉川英治歴史時代文庫を底本に、各巻が無料で読める。まず「桃園の巻」の黄河の場面を開いてみて、劉備の茶の場面で引き込まれるかどうかで、続きを読むか決めればいい。